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My Theory on Life

知識や経験が少なくてもいい?他者と比べない、自分らしいくらしの「こだわり」の育て方

「こだわり」って自信を持って言えるほどの何かが、自分にはない――そんなふうに思ったことはありませんか? 周りを気にせず自分の世界でじっくり楽しめばいいはずなのに、SNSなどを見て「あの人に比べたら私なんて」と後ろめたくなったり、他者からの「イイね」をもらうことに躍起になってしまったり……。どうしたら、外の情報に振り回されずに、自分らしい「こだわり」を育てていけるのでしょうか?

哲学者・明治大学理工学部准教授
鞍田 崇

著書『民藝のインティマシー「いとおしさ」をデザインする』で、約100年前に柳宗悦らが提唱した「民藝」を問いなおし、「いとおしさ」をキーワードに社会の「これから」を考えている。SNSのプラットフォームがインターネットをどうしようもなく拙速に、窮屈にしてしまっている今、もっと人間が自由になれる場所を、それも実空間につくることはできないか──そんな考えからはじまった「庭プロジェクト」のボードメンバーを務めている。

q&d編集部
長谷 芳教

学生時代は吉祥寺・渋谷の喫茶店を巡り、神保町で珈琲本を漁る。社会人になってからは「コーノ式珈琲塾」で抽出や焙煎の技術を学び、インストラクターの資格を取得。平日はパナソニック オートモーティブシステムズ社で車載機器の開発をし、週末は自宅で珈琲豆を煎ることを楽しむ。

楽しいはずのこだわりが、他者との比較によってつらくなること、ありませんか?

僕のこだわりは“珈琲”です。

 

学生時代から喫茶店・カフェ巡りが好きで、神保町の古書店で珈琲本を漁っていました。サラリーマンになってからは焙煎士の養成講座に通いはじめ、開業を目指す仲間たちと共に、その道のプロフェッショナルを目指して切磋琢磨してきました。

 

ただ、そんな楽しいはずのこだわりが「ちょっとつらいもの」になった時期がありました。開業した仲間の店を訪れて「自分よりも素晴らしいこだわりを持っているな」と感じて落ち込んだり、SNSで僕より多くの“イイね”をもらったりする仲間を見て羨ましくなったり……。

 

今ではそういった苦しさから抜け出せているのですが、ふと「あの頃はなぜ、周りのことを気にしてしまっていたんだろう?」と不思議に思うことがあります。そして今回、特集のテーマに合わせて問いを考えたとき、「経験や知識の量、他者との比較と上手に距離を取ることが、自分にとって心地よいこだわりを育てるカギになるのでは」と感じたのです。

 

そんな思いを胸に、哲学者の鞍田崇さんにお話を伺いにいきました。近年あらためて注目を集めている「民藝」を手がかりに、物と人とくらしのよりよい関係について「いとおしさ」というキーワードを用いて模索されている鞍田さんと「外界とうまく折り合いをつけながら、ただただ“いとおしい”と思えるこだわりの育て方」について、一緒に対話をしながら考えます。

知るのではなく、まず観る。「直観」から芽生える自分らしさ

長谷 芳教(以下、長谷)

本日はどうぞよろしくお願いします。僕は鞍田さんのことを『WEEKLY OCHIAI』で落合陽一さんと対談されているのを観て、初めて知りました。その時は「民藝と共生」というテーマで語られていて、「利便性が追求されすぎた現代は、身体性、手(て)的なものが急速に失われている」「名も無き職人の手から生み出された日常の生活道具である『民藝』に、身体性を取り戻すヒントがある」といった発言に、とても共感したんです。

鞍田 崇さん(以下、鞍田)

ありがとうございます。こうやってじかに感想をもらえるのって、言葉に手触りが感じられて、一層うれしいですね。

長谷

鞍田さんは民藝の研究を通して、物と人とのよりよい関係や、手仕事的な行為の持つ意味について、鋭い考察をされています。それらが私の考えたい、くらしを豊かにする「こだわり」と深くつながるような気がして、今回こうしてお話を伺いにきました。

 

私にとってのこだわりは「珈琲」なのですが、一時期、外の情報や評価が気になって楽しくなくなったことがありました。インターネット上に知るべき知識があふれすぎていて追いかけるのがしんどくなったり、SNSにすごい人たちがたくさんいて「自分なんて大したことないな」と感じてしまったり……そんな経験をしたことのある人は、きっと少なくないのではと思っています。

 

そんな背景を踏まえて最初の質問をしたいのですが、自分らしいこだわりを育てていくのに、外の情報や評価って、邪魔な存在なのでしょうか?

鞍田

そうですね……世の中には知らないこともたくさんあるから、外の情報がちょうどいい道しるべになってくれることも多いでしょう。一方で、自分が未熟なまま受動的に外の情報ばかりを頼りにしていると、自分が見えなくなるおそれもあります。そうなると、こだわりは育ちづらくなると思います。

長谷

自分が見えなくなる、のですか?

鞍田

知識や何らかの評価を参照することは物事を理解する上で、とても役に立つものです。ただ、それらはあくまで他者の価値観で語られているものであることも事実。そこに意識を持っていかれすぎると「自分自身にとってどうなのか、どう感じるのか」と、フラットに物事を感受するのが難しくなってしまいます。

 

「外の情報が邪魔に感じる」というのは、きっと内なる自分の感性が「余計なことにとらわれすぎじゃない?」とアラートを出してくれているのかもしれませんね。

長谷

たしかに「ずっと外の情報が邪魔」というわけではなかった気がします。むしろ、焙煎を始めたばかりの頃は、調べながら新しい情報に触れることにワクワクしていました。それが知らぬ間に、モヤモヤに変わっていたんですよね……。

鞍田

そんな時に、頼りになるのが「直観」じゃないかなと、僕は考えています。「感じる」ではなく、「観る」と書くほうの直観です。

長谷

直観ですか……詳しく教えていただいてもいいですか?

鞍田

「民藝」という言葉をつくった哲学者の柳宗悦は、世間的な価値に左右されずにモノの本質を見極める眼差しとして「それは『直観』より発した」と再三彼なりの深い意味を込めて言っていました。

 

いろいろな情報を得ると、それが色眼鏡となって「観る」ことにバイアスがかかってしまう。だからこそ、人の評価に左右されないよう「まず、知る前に観なきゃいけない」と、柳は説いていたんです。

 

そんな柳だからこそ、それまで誰も見向きもしなかった生活道具に「民藝」という価値を見いだせた。言うは易しで実際はなかなか難しいことかもしれませんが、この「直観=ただ観る」という姿勢で物と向き合うことが、フラットな自分の心の機微を感じ取る糸口になるんじゃないかな。

鞍田さんの研究室の本棚

一度で見限ったらもったいない。だから、まずは「愛して」みない?

長谷

「直観=ただ観る」という眼差しは、自分の心が動く対象、すなわち「こだわりの種」を見つけていくのに、とても有効そうだなと感じました。その直観は、どうやって身につけたり、磨いたりしていけるものなのでしょうか?

鞍田

そうだなあ……うまく答えにつながるか分かりませんが、ちょっと僕の昔話をしてもいいですか?

長谷

ぜひ、お願いします。

鞍田

僕はいま哲学を専門としているのですが、高校まではまったく哲学に興味がなかったんです。当時は英語が好きだったので、なんとなく外大で外国語を学ぶものだと思っていました。

長谷

そこから、どうやって哲学に出合ったのですか?

鞍田

高校から家までの帰り道にある、駅前の本屋さんがきっかけでした。最初はふと見かけて気になって入ったものの、置いてある本が難しそうなものばかりで、すぐに店を出ちゃってたんですけど。ただ、店の雰囲気に惹かれたのか、その後もなんだか気になってしまって、何度か通っていたんですよね。

 

そしたらある日、店主のおっちゃんが「この間も来ていたよね、よかったら珈琲でも飲む?」と声をかけてくれたんです。制服で出入りしているのは僕くらいでしたから、面白がってくれたんでしょうね。店主さんは大学で哲学を専攻されてて「地元(兵庫)の出身者にも哲学者がいるんだよ」と紹介しつつ、和辻哲郎の『風土』っていう本を貸してくれたのが、今の専門に進む入り口になったんです。渡されたのは、箱入りのハードカバーで、「これが哲学書か」ってドキドキしながら手にしたのを覚えています。

長谷

ちょっと気になって入った、というのがまさに「直観」ですね。

鞍田

直観というほど大げさなものではなく、むしろ「直感」かな。いずれにせよ、今だからよくできたストーリーみたいに話せているけど、本当にたまたまなんですよ。若者なりにウジウジもしていたし、そんなに気さくに人に声もかけられない時期でもあったし、借りた『風土』もチンプンカンプンだったし(笑)。でも、その「たまたま」を呼び込んだのは、自分の行動だった。

 

気になっていた対象に触れてみても、一回目は得るものもなかったり、よく分からなかったりすることって多いじゃないですか。それでも「やっぱり気になる」という気持ちが少しでも残っていたら、二度、三度とアプローチしてみるのが、けっこう大事なのかもしれません。

長谷

一度で見切りをつけないで、繰り返し当たってみると。

鞍田

そうすると、状況のほうから寄ってくることがあるんですよ。積極的にアクションしたわけじゃないけど、店のおっちゃんが声をかけてくれたばかりか、椅子を出して話を聞いてくれたり。一度読んで分からなかった本も、二度目は不思議と言葉が頭に入ってきたりね。

長谷

状況に寄ってきてもらう「コツ」なんてあったりしますか?

鞍田

うーん……「まず、愛せ」なんて、どうでしょうか。

長谷

えっ。愛、ですか??

鞍田

先日フランスの思想家パスカルの『パンセと小品集』という著作でこんな言葉を見つけたんです。「人間のことは愛する前に知らなければならない。ただし、信仰など神にまつわることは知るためには愛さなければならない」って。なんだかこの一節が、すごく心に残っていて。

長谷

何かを愛したら、世間の評価ではなく我がこととして観るようになる気がします。周りの目を気にせず、何度も出合いにいったりしそうです。あと、鞍田さんがよく使っている「いとおしい」や、昨今では推しに対して使われる「尊い」という表現なども、今の「愛せ」のニュアンスに近いのかなと感じました。

鞍田

そうですね。漫然とガラスケースの向こうにあるものを冷ややかな眼差しで見ていても、多分「いとおしさ」は生じにくいし、あっても気づきにくいと思います。愛することに合理的な理由はないのと同じように、こだわりにも他者に説明できるような理由って、本当はなかったりするのかもしれません。

人間で“いる”ことから離れる、“ある”時間の幸せ

長谷

こだわりの方向性として「周りとの競争を厭わず、とことん突き詰めてトップを目指す」といったあり方も素敵で、それができる人は素晴らしいなと思います。ただ、僕はそれが性に合っていなかったようで。目標や目的を定めすぎると、その達成のために「やるべきこと」で時間を埋めてしまって、結果的にしんどくなってしまったんですよね。

鞍田

昨日、僕もボードメンバーを務めている「庭プロジェクト」の研究会があって、そのグループワークで一緒になった若い人も似たようなことを話していました。「空いている時間があると、何かやらなきゃと不安になって、テトリス的に予定を埋めていってしまう。そうやって忙しくしているのが、しんどくなってきた」と。

 

その彼は最近、休みの日に携帯の電源を切って、時計を一切見ないでひたすら部屋の掃除をして過ごしているそうなんです。SNSやネットからも離れて、家事に没頭する時間が、とても心地よいのだとか。

長谷

その気持ちはよく分かる気がします。

鞍田

そうした状態って、人間が“物(もの)化”している、いわゆる「ある」時間なんですよね。

長谷

「ある」時間、ですか?

鞍田

人や物の状態は、大きく「いる・する・ある」の3つに分けられます。「いる」「する」というのは主に人間の状態ですが、「ある」は物の状態を指します。

 

何かに夢中になっている時、いろんなことから解き放たれて、自分のことも忘れてしまう。すなわち、人間でいることから離れて「ある」になっている。これは福祉施設を運営している妻の持論でもあるんですが、僕も密かに、人間ってこの「ある」状態になっている時が、雑念にとらわれていなくて、一番ハッピーなんじゃないかと思っているんですよ。

長谷

僕も焙煎に集中していると、我を忘れて6時間くらい経っていることがあって(笑)。でも、その時間を「もったいない」などと感じたりはしないし、終わった後は不思議と充足感に満ちているんですよね。こだわりは、くらしの中に幸せな「ある」時間を生み出す行為、という捉え方もできそうです。

「今日、何時間生きましたか?」

長谷

ここまでのお話で、くらしを豊かにするこだわりのあり方がどのようなものなのか、その輪郭が徐々につかめてきたように感じます。

鞍田

長谷さんがおっしゃったように「こだわり」って、ちょっとアクが強い言葉というか、時間やお金をかけるイメージが根強いですよね。本来は、そういうものに巻き取られそうになるのを、止めてくれるような働きをしてくれるはずで。

 

資本主義社会の波に飲み込まれないようにくさびを打つというか、日常に弾みをつけるというか……そういう意味では「こだわり=リズムの素」くらいで捉えるのがちょうどいいのかな、と思ったりもします。「ルーティン」だと、ちょっと気取った感じになりますしね(笑)。

長谷

こだわりは、くらしを豊かにするリズムの素――なんだかグッと身近になった気がします!

鞍田

リズムというと、僕の場合、朝ごはんのメニューが決まっていて。食パンと珈琲と、カスピ海ヨーグルト。これがもう20年以上、ずっと同じなんです。趣味から育てていくのもいいですが、そういうささやかな反復される日々のリズムみたいなものから「もしかしたら、これ、自分らしいかも」と感じられるこだわりを見いだしていくのも、案外いいのかもしれません。

長谷

僕も毎朝、珈琲豆を挽いてペーパードリップしてお気に入りのマグカップで飲むことで、くらしにリズムを作っている気がします。タイパやコスパでは測れない、ささやかだけど確かに幸せなくらしの「小確幸」だなと感じています。

鞍田

それは素敵ですね。僕たちは日々の仕事や生活で「時間と対価」について考えることが多い。けれども、くらしって本来、そういうものじゃないと思うんです。

 

僕の友人に、福島県奥会津の昭和村で営まれている布づくりの可能性を探っている女性たちがいます。糸の材料となる「からむし(苧麻)」という植物を育て、繊維を取って糸をつくり、布をつくるところまですべて手仕事で、ものすごく手間がかかるんですよ。

 

その友人たちが東京で糸づくりの実演をした時に、会場から「この作業を何時間やったら一反の布になりますか?」という質問が出たことがあったんですね。

長谷

それは気になります。

鞍田

そしたら「そんなこと、今まで考えたこともない」と答えたんです。僕はそれを聞いて「ああ、彼らにとって糸づくりは生きることとセットというか、それ自体なんだ」と気づきました。僕らは「今日は何時間仕事をした」とは言うけど、「今日は何時間生きた」とは言わないじゃないですか。

長谷

たしかにそうですね……! 糸づくりの姿勢が、先ほど出てきた「ある」状態に近いなと感じました。

鞍田

まさにそうなんです。「時間をお金に換算すること」が効果的な場面もあると思いますが、それだけが人間として当たり前の在り方ではなくて。むしろ、時にはそういう価値観を突き放すことが、これからの世界でより大事になってくるのではないかな、と感じています。

こだわりが生むリズムで、踊るようにくらしを楽しもう

鞍田さんのお話を伺って、物が大量生産されはじめた100年前に「物質的な豊かさだけでなく、よりよい生活とは何かを追求」することで多くの民衆の共感を集めた『民藝』が、情報があふれている現代社会に再び注目されている理由が分かった気がしました。

 

これまではSNSでいたずらに自分を表現したり、他者の評価に一喜一憂したりと、日々の制約に縛られタイパ・コスパの世界に引き込まれることで足が止まり、自分らしいくらしを見失っていたことも、多々あったなと感じます。

 

「こだわり」は、そのような価値観に飲み込まれそうになるのを、一度引き止めてくれる存在だと気づきました。固まってしまった思考を少しでもほぐしていくために、まずは「直観」で世界を捉えて、些細なことでも自分の心が震えるものに出合うことを、大事にしていきたいです。

 

没頭して、他者どころか、自分のことさえも忘れてしまう――夢中になれる「こだわり≒くらしのリズム」をたくさん持つことで、踊るように楽しくくらせるようになれるかもしれません。そんな「あり」方を目指して、これからもいろんなこだわりの種を見つけ、育てていきたいなと思います。

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photo by 川島 彩水

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