QUESTION & DIALOG QUESTION & DIALOG

カギは「好き嫌い」。
コスパ・タイパに縛られない学びを取り戻そう

Lifelong Learning

カギは「好き嫌い」。
コスパ・タイパに縛られない学びを取り戻そう

「仕事の効率化やスキルアップのための学び」は重要だと思う一方で、目的のはっきりした学びに囚われすぎて、何か大事なことを見失っているように感じたことはありませんか? 「役に立つことを学ばねば」という義務感を手放し、「心の充実につながる主体的な学び」を取り戻すための方法を、精神科医の泉谷閑示さんと探ります。

精神科医・作家・音楽家
泉谷 閑示

東北大学医学部を卒業後、東京医科歯科大学医学部附属病院、(財)神経研究所附属晴和病院勤務などを経て、現在は精神療法を専門とする「泉谷クリニック」の院長を務める。1999年フランスに渡り、パリ・エコール・ノルマル音楽院に留学。音楽家、作曲家としての顔も持つ。著書に『「普通がいい」という病』『反教育論 猿の思考から超猿の思考へ』(共に講談社現代新書)、『「私」を生きるための言葉――日本語と個人主義』(研究社)など。最新刊に『なぜ生きる意味が感じられないのかーー満ち足りた空虚について』(笠間書院)がある。

q&d編集部
春日 貴大

東京都出身。創価大学にてマーケティングや統計学を中心に海外留学・海外インターンを経験し、パナソニック入社後はBtoC領域のマーケティングに従事。社内有志団体のOne Panasonicの代表を務める中で「人材育成」に課題を感じ、2022年より人事に職種転換。現在は採用から育成までを一貫して行う仕組みづくりに尽力中。

目次

「役に立たない学び」は、本当に不必要?

「Hungry to Learn?」という今回のq&dの特集テーマにおいて、私が考えてみたいと思ったことは「学びにおいて『役に立つかどうか』が意識されすぎていて、何か大切なことを見落としていないだろうか?」という問いです。

 

社会が劇的なスピードで変化する中、そこに対応していくためのキーワードとして、仕事で必要なスキルを新たに習得する「リスキリング」や、新しい学びを取り込むために既存の知識を取捨選択し直す「アンラーニング」など学び直しに関する言葉が、ここ数年でメディアにも頻出するようになり、人々の学びへのモチベーションは高くなっているように思います。

 

しかしその反面、昨今は「仕事、スキルアップに役立つ学び」ばかりが重視されるようになっていて、それらを学ばなければ社会から置いていかれてしまう……といった焦燥感を駆り立てられる状況が、日本社会に広がっているように感じています。

 

かくいう私も、日常では役に立つ学びを優先してしまいがちですが、最近ふと「すぐに役に立たないことを、学びから切り捨ててしまっていいのだろうか?」「学びの豊かさとは、もっと別の視点で捉えられるものではないか?」と考える機会が増えました。

 

こうした問いと向き合うことで、私たちが無意識のうちに抱いているさまざまなバイアスを取り除き、より多くの人がくらしを豊かにする学びを享受できるヒントが得られるかもしれない——。

 

そんな思いを胸に、私は『仕事なんか生きがいにするなーー生きる意味を再び考える』『反教育論』の著者である、精神科医の泉谷閑示さんにお話を伺いに行きました。著作の中でも、学習や教育にまつわる世の中のさまざまな「当たり前」に揺さぶりをかけていた泉谷さんと一緒に、私たちがよりよい「学び」を積み重ね続けるために、どんな発想の転換、どんな思考や行動の習慣が必要なのかを、対話しながら考えてみたいと思います。

「役に立つ、価値がある」って、誰が決めていること?

春日 貴大(以下、春日)

本日はよろしくお願いします! 泉谷さんの『仕事なんか生きがいにするな』を愛読書にしていて、お話できるのをとても楽しみにしていました。

 

この場では「昨今の学びが『役に立つかどうか』という価値観に縛られて、窮屈になっているのではないか?」という問いについて、泉谷さんと一緒に考えたいと思っています。まずは、泉谷さんが今の社会での学びの捉えられ方について、どのように感じられているか、ぜひ伺いたいです。

泉谷 閑示さん(以下、泉谷)

役に立つ学びばかりが重視されがちな風潮は、たしかにあるように思います。学ぶ目的が「仕事に役立つかどうか」という観点に偏っていて、効率化やスキルをいかに身につけるかといった話に終始しがちなようですね。

 

それらが不必要だとは言わないけれど、僕は、学びとは小さい子どもが遊びに熱中している時のように、好奇心が先行して「知りたい、楽しいと思うから結果としてやってしまう行為」であるほうが望ましいと思います。側から見ればそれは学びなんだけど、本人自身は格別そう意識してやってるわけではない。そういうものが本来の学びの姿なのではないかなと。

春日

とても共感します。「役に立つ学び」と、いま泉谷さんが挙げた「本来の学び」には、どういった違いがあるのでしょうか?

泉谷

昨今の「役に立つ学び」という言葉が指し示しているのは、社会の役に立つ、価値があるとされている視点から見た「有意義な学び」を目指したものだといえるでしょう。しかしこれは、自分以外の誰かが「役に立つ、価値がある」と決めている価値観に支配されたものなんです。

 

一方で、遊びの精神で成されるような本来の学びは、第三者から見て価値があるかないかなんて関係ありません。他者がどう感じようとも、「自分にとって意味がある」から没頭できるし、充実感を得られるものなんです。

春日

なるほど。役に立つ学びとは他者基準で「これをやるべき、やったほうがいい」と決められたものであり、本来の学びとは自分基準でたしかな充実感を味わえるものである。後者のほうが極めて主体的な行為ですね。

泉谷

そうですね。自分にとっての「意味」を主体的に見いだすという行為は、とても大事なことなんです。他人が決めた「役に立つ、価値がある」という尺度をいくら追いかけても、自分の心は満たされません。そんな呪縛から抜け出して、自分にとって意味が感じられるものを追求すること、そうやって率直に自分自身に向き合うことが、よりよい学びに近づくためには必要なことではないかと思います。

「空白の時間」と向き合い、私を取り戻す

春日

他者の基準に左右されず、自分にとって意味のある学びを大事にすることの大切さは理解できたのですが、そうはいってもなかなか「役に立つこと、他者が価値を担保してくれること」から脱却できない難しさもあると思います。

 

泉谷さんの視点から、私たちが「役に立つ学び、価値のある学び」に依存してしまいがちになる理由について、何か思い当たることがあればぜひ教えていただきたいです。

泉谷

主体性が薄れ、他者の基準に縛られていると「時間を無駄にしたくない。そのために役に立つこと、有意義なことで一日を埋め尽くさなければ」と自らを急き立てる傾向が強くなります。そのような焦燥感の裏側には、「空白の時間」に対して一種の恐怖心を抱いている自分があるのではないかなと思います。

春日

空白の時間、ですか。

泉谷

空白の時間とは、世間の価値観が侵入してこない「自分とじっくり向き合える、向き合わざるを得ない時間」なのだと言えるかもしれません。これを大事にすることで、初めて自分の好奇心のベクトルや、自分にとって意味のあるものが何であるのかが見えてくるんです。

春日

たしかに、何も予定のない時間って「何をしたらいいんだろう? 自分は何をしたいんだろう?」って考えますね。そこで「自分が何をしたいのかがわからない」ことに、ハッとしたりする。

泉谷

そうそう、空白の時間に向き合ってしまうと、きっと「空っぽな自分」が露呈してしまうんじゃないか。そんなことを無意識的に恐れている人たちは、きっと少なくないでしょう。誰かが価値や楽しさを保証したもので自分の暮らしを埋めておけば、とりあえずそんな自分とは向き合わずに済む。だから、必死に空白の時間を避けようとしてしまうのでしょう。

春日

短期的な自衛と捉えれば、それは自然な行動だと言えそうです。でも、長い目で見れば、早く自分と向き合って意味を見出したほうが、より充実した学びを積み重ねられるはずですね。

泉谷

空白の時間を避けてしまう傾向は、受けてきた教育やしつけの影響も、大いにあるんじゃないかなと思います。「社会的な評価が高く、就職しやすそうな大学に行くために受験勉強を頑張る」といった実利に偏った動機付けが広く社会にはびこっていて、「生徒一人ひとりにとって意味のある学び」を形作っていくような方針の教育は、残念ながらあまり行われていないように感じます。

春日

「社会的な評価が高い」とは、つまり他者の基準ですよね。「自分にとって意味がある学び」ではなく、「誰かが『役に立つ、価値がある』と決めた学び」を追いかけることがベターだと教わってきているから、そういう考え方が染み付いていると。

泉谷

そうですね。私たちは誰かが掲げた価値観をまっとうするために生きているわけではありません。だからこそ今一度、自分と向き合う空白の時間を確保して、「自分にとって意味のあることは何なのか?」という問いと静かに向き合うことが必要なのではないかと思いますよ。

「嫌い」と「憧れ」が、失われた主体性に火を灯す

春日

他者の基準に縛られない学びを取り戻すために、私たちはどうしたらよいのでしょうか? 空白の時間に、どんなことを考えればよいのでしょうか?

泉谷

ここまでに何度かキーワードとして出てきていましたが、本質的な学びというものは、純粋な「好奇心」に基づいて始まるものです。だからこそ、どういう対象に好奇心が湧くのかを探ることが大切ですね。

 

私たちがこれまで学校でさせられてきたのは、外的な目的に向かって半ば強いられるように勉める「勉強」なんですよ。学校でそういった受動的な姿勢ばかりを求められてきてしまったがゆえに、主体的に問題を見出し、それを自分で探究していく面白さに目覚めていない人が、案外多いんじゃないかなと思います。

春日

泉谷さんの『反教育論』の中で、「大学での講義においては、用意したカリキュラムを押し付けるやり方を採らずに、学生に自由に質問してもらって、それに従って話題を展開させていくようにしている」といったことが書かれていたのが印象的でした。

泉谷

主体的な好奇心から学びが始まれば、今まで関係がないと思っていた専門分野についても、自然と「知りたい」「もっと研究したい」という気持ちになるものです。

春日

ただ、先ほどの泉谷さんのお話にも挙がっていたように「何が好きなのか、何について興味があるのかわからない」という人も、少なくないと思います。自分の好奇心のありかを探るコツなどがあれば、ぜひ教えていただきたいです。

泉谷

まずは、「自分は何が嫌いなのか、何がやりたくないのか」をはっきりさせていくといいでしょう。

 

イヤをはっきり感じられない人が、都合良く好きという気持ちや、好奇心だけを感じ取ることは原理的にできません。幼い頃から、習い事やお受験、そして学校や社会の中でも「イヤだ、嫌いだ」と発することを禁じられてきた歴史を負っている人が多いように思います。だからこそ、このイヤをもう一度大事にするところから始めてみることが、とても大切なんです。

 

人間に生ずる「嫌い」という気持ちは、単なるわがままや気まぐれなのではありません。対象について、どこか納得がいかなかったり、自分に合わなかったりする要素を嗅ぎ取っているからこそ、そう感じるものなんです。ですから、自分の嫌いという感情が、対象の何を察知して生じたものなのかをはっきり把握することによって、その反対側にあるはずの「好き」についても、見つけやすくなるのです。

春日

「嫌い」から、「好き」を探し始める。これは足がかりにしやすそうです。

泉谷

あとは、「憧れることのできるような人物を見つける」のもいいのではないでしょうか。心が凝り固まって、好きも嫌いもうまく感じられない時には、周囲を見渡して「なんかすごいな、気になってしまうな」などと心に引っかかる人を探してみる。

 

そういう人たちって、大抵は他人の目を気にせずに、自分の好奇心を原動力にして、何かに熱中している方が多かったりする。人に憧れる気持ちが生まれると、「あの人みたいになりたいな、あの人がやっていることって楽しそうだな」と、好奇心や学びに対する主体的な意欲に繋がる気持ちが、湧き上がってきやすくなると思います。

春日

たしかに私も、周りに尊敬できる上司や仲間がいて、彼らが楽しそうに何かに打ち込んでいる様子から、すごく刺激をもらえているなと感じます。

泉谷

これまで精神科医として、またひとりの人間として、たくさんの人と向き合ってきましたが、人間というものは、それぞれがいろんな資質を持って、見事にばらついて生まれてきている。そもそも「好き」や「嫌い」がまったくない状態で生まれてくる人などいません。自分に生来備わっている好奇心に基づいて探していけば、必ず自分の魂が震え、ほれ込むような対象が必ずや見つかるはずです。

春日

ただ、それは本心から探したいと思わないと、なかなか見つけきれないものでもあって。そのモチベーションの源泉をこじ開けるのが「憧れ」というトリガーだ、ということですね。

泉谷

そうだと思います。自分自身の心がたしかに動かされる「憧れ」の存在は、世の中を広く見渡せば、きっと誰でも見つけられますよ。それをきっかけに、自分にとっての好き、好奇心、訳もなく心ひかれるものを手繰り寄せていけば、知らぬ間に「意味のある学び」を積み重ねていけるようになるでしょう。

「学び」を手放し、遊ぶことで、本当の学びに近づける

泉谷さんは取材の最後に「“学び”という言葉を、もう使わないほうがいいのかもしれない」と言いました。今の「学び」という言葉には、強制された「勉強」のイメージが刷り込まれすぎている。だから、一度「学び」という言葉を手放して、好奇心で駆動する「遊び」という言葉で捉え直したほうが、結果的にいい学びになるのでは、と。この指摘が、すごく心に刺さりました。

取材中、最近出合った本について楽しそうに紹介してくれた泉谷さん。純粋な好奇心の一端を垣間見ることができました

今の自分は、どれだけ自らの好奇心に素直になれているか。自分の好きや嫌いを、どれだけ大切にできるか——これらの問いとあらためて向き合いながら、ほかの誰でもない自分が熱中できる、自分に意味のある「遊び」を見つけ、没頭していきたいなと感じました。泉谷さんの言葉が、自分にとっての「学び」を解放してくれたような気がしています。

 

不確実な時代とよくいわれるものの、考えてみれば昔から確実なものなんてなかったのかもしれない……だからこそ、その中でも「自分はこれが好き、これをやりながらくらしていく」と決めて一歩を踏み出すことで、結果的に生まれる「学び」を一つひとつ拾っていこうと思います。文章を考えている今このときも、そしてこの記事が世に出た後も、自分にとって意味のあることを大切にして、一日一日を楽しんでいきたいです。

 

皆さんはこれから、どんな「遊び」に心を躍らせながらくらしていきたいと感じますか? ぜひ、「#食べるように学ぶ」をつけてツイートしてください。

『q&d』編集部が問いと対話をより深めていくq&dラヂオでは、精神科医の泉谷 閑示さんを訪ねたときのことを振り返りながら、義務感を手放し、「心の充実につながる主体的な学び」を取り戻す方法について、改めて考えました。

Photo by 加藤 甫

  • 記事へのコメント

    Leave a Reply

コメントの投稿が完了しました。

記事へのコメントは必ずしも
表示されるものではありません。
ご了承ください。

閉じる

Lifelong Learning Hungry to Learn?

  1. 時間もかかるし、答えも出ない。でも、それでいい──
    「ケア」から考える、頑張らない学びのススメ

    q&d編集部
  2. 就職と同時に可能性を諦めた過去の私へ。
    学習学を通して再度向き合う大人の学び

    小関 史織
  3. 「つい学び続けてしまう仕掛け」をどうデザインする?
    組織に学びを定着させる方法を探る

    黒田 健太朗
  4. 「Hungry to Learn?」特集に寄せて

    松島 茜

questions questions

他の問い