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2096年のメメントモリ——未来を描いた小説の世界から
「老い」と「死」を眺め、現在における「理想の生き方」を想う

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2096年のメメントモリ——未来を描いた小説の世界から
「老い」と「死」を眺め、現在における「理想の生き方」を想う

「老い」について考えるとき、避けては通れないのが「死」という概念です。私たちはすべからく、「死」に向かって年を重ねています。でももし、心臓が止まった後も、“生き続けられる”世界があったとしたら、私たちは「死」や「老い」にどのように向き合うのでしょうか。そんな空想上の世界を立脚点に、「いい年の取り方」を考えます。

目次

もし、デジタル空間上で生き続けられる時代が来たら

メタバースが隆盛し、AIが指数関数的に進化する昨今において、デジタル空間上に「人格」を持つ主体が存在することを想像するのは難しいことではないでしょう。2014年に公開された映画『トランセンデンス』は、そんな「想像」を描く作品です。ジョニー・デップ演じるAI開発者のウィルはある時凶弾に倒れてしまいますが、その脳は妻の手によって彼自身が開発していたAIに“インストール”され、ウィルはデジタル空間上で生き続けることになり……と、そんなお話でした。

 

このままテクノロジーが発達し続ければ、『トランセンデンス』の世界は現実になるかもしれません。肉体的な死が訪れたあとも、デジタル空間に「あなた」が生き続ける世界において、あなたはいかに生き、いかに“死”を想うのでしょうか。そして、肉体的な死と不可分な「老い」とどのように向き合うのでしょうか。

 

もちろん、現段階では「デジタル空間に人が生きる世界」は空想でしかありません。つまりはSFの世界です。しかし「いまここにない世界」を生み出すSF的な発想は、私たちに「いまここにある世界」を捉え直す力をくれます。

 

今回実施したのは、そんなSFの力を借りたワークショップです。題材としたのは、SF小説家である樋口恭介氏による『何もかも理想とかけ離れていた』と題された物語。2096年の世界を舞台とするこの小説は、パナソニックの未来創造研究所が進めるプロジェクト、「Sci-Fi Diving」の一環として生み出されました。

 

このプロジェクトのコンセプトは、「SF小説から未来の“時間”をヨム」。そして『何もかも理想とかけ離れていた』は、「デジタル空間に人が生きる世界」における「生と死」を描き出しています。

ワークショップでは、まずは参加者たちに現時点での「死」や「老い」に対する考え方を共有してもらい、次にじっくりと時間をかけて小説を読み込んでもらいました。
その後、小説から得た気づきや学び、読み込みの前後で変化した考えなどについての対話を実施。

ワークショップを通して、参加者たちの「死」や「老い」に対する向き合い方はどのように変化したのでしょうか。ぜひ、みなさんも参加者になったつもりでお楽しみください。

ワークショップの開催場所は、東京都文京区本郷にある旅館・鳳明館。
登録有形文化財でもある本館が建設されたのは、明治31年。 築120年を超えた今でも営業を続けています。
「過去」を今に伝えるこの場所に来たつもりで、未来の世界にDeep Diveしていきましょう。

「生きている」ってそもそもどういうこと?

——作品を読む時間に入る前に、まずは、みなさんが「死」や「老い」についてどのように捉えているか聞いてみたいと思います。「死」と聞いて、どのようなことを思い浮かべますか?

大塚 拓海さん(都内大学院でヒューマンインターフェースを専攻。研究テーマは「コミュニケーションのインタラクションデザイン」。以下、大塚)

小さい頃から時々、眠る前に死後の世界について考えて、怖くなって眠れなくなることがあるんです。やりたいこと、話したいこと、楽しみたいことがたくさんあるのに、いつか死んでしまうんだと考えると、すごく逃げ出したくなる。でも死ぬことから逃げられないんだと思うとすごく怖くて。

田中 理那さん(都内大学を休学中。大学ではジェンダー教育を専攻。クリエイティブを扱う会社でインターンをしている。以下、田中)

私は死に対する恐怖感が一切無いんですよね。それはたぶん、私が「生」の対義語として「死」を捉えてないからなのだろうと思っています。赤ちゃんが生まれた後に死んだら死亡届を出さなければなりませんが、妊娠12週未満のときに流産してしまった場合には、死産届を出さなくてよいと聞いたことがあります。

 

ということは、「生きている」と「死んでいる」の境界線は、社会的な制度によって暫定的に規定されているだけなのかなって。妊娠12週未満だとしても心臓は動いているわけですし、お母さんやお父さんからすればその子は「生きている」と思うんです。

——生と死は明確に線引きされるものではなく、社会的、あるいは自分以外の誰かの主観的な判断に基づくものでしかないということですね?

田中

そういうことです。いつか私の心臓が止まってしまっても、自分が存在していた事実は消えないじゃないですか。つまり、私たちは関わった人や物事の中で“生き”続けられ、「無」になることはないのかなと。そう考えると、「死」はそんなに怖いことではないというか。とはいえ、私は実際に死の危機に瀕したことがなく、死を概念的にしか考えられないから恐怖がないだけなのだろうとも思います。

——住谷さんはいかがでしょう。死に対してどのようなイメージを持っていますか?

住谷 陸斗さん(パナソニック EW社 入社3年目。社内で住宅設備のコミュニケーション企画・制作を担当。以下、住谷)

死ぬと周囲に迷惑をかけるから、「死=悪いこと」なのかなと思っています。たとえば僕が死ぬとなった時、周囲の人に対して「残してしまってごめんなさい」というような感情が湧いてくる気がして……。

田中

以前、SNSで偶然見た海外のお葬式の動画が印象に残っていて。埋葬した後に、生前録音した故人の声が流れるんです。「何泣いてんだよ。最後は明るく笑ってくれよ」といったメッセージに、参列者たちが泣き笑いする……みたいな内容で。私も自分のお葬式をこんな風にしたいなと思うとともに、残す人たちにどんなメッセージを伝え、どんな感情を抱いてもらうかが、最後の「生きざまの表明」なんだろうなと思いました。

「老い」は、なぜネガティブに捉えられるのか

——「死」の前にある、「老い」についてはどんなイメージを持っていますか?

田中

私の祖母は「死ぬことは怖くないわ」ってよく言っているんですけど、アンチエイジングをうたう化粧水を使っているんです。それって、死ぬことは怖くないけど、老いたくはないってことなのかなと思って。私はまだその感覚がよくわからないんですよね。

——「老いたくない」という感覚が?

田中

はい。私は現在22歳なのですが、だいたい20歳くらいまでは年を重ねることは「成長」と同義だと捉えられるのに、次第に「老い」だと捉えられるようになる印象があります。「年を重ねる」という意味では同じなのに、いつの間にかそれがネガティブなものになっている気がするんですよね。

 

たとえば白髪が増えてきたとき、「老いが始まった」とネガティブな気持ちになると思うんですけど、それって外見が変わってしまったからなのか、死に一歩近づいたように感じるからなのか……。なぜ老いに対してネガティブなイメージがあるんですかね?

住谷

「できていたはずのことが、できなくなるから」なのではないでしょうか。僕は「老い」をそのように捉えているので、やはり老いたくないと思ってしまいますね。

田中

なるほど。「当たり前のことが当たり前じゃなくなっていく」とも言えるかもしれないですね。今私たちが快楽を感じること、たとえばお酒を飲むとか、キャンプに行くとか、山登りをするとか、そういったことがだんだんとできなくなっていく。今当たり前に楽しんでいることが、当たり前じゃなくなってしまうと、別の生きる楽しみを探さないといけない。だから、「老い」に対してネガティブなイメージがあるのかも。

住谷

年を取ると、なかなか新しいことにチャレンジしづらくなる気もしますしね。「年を取って身体が思うように動かなくなるから、新しいことができない」のか、それとも「新しいことをしたいと思わなくなるのか」も気になるところです。

大塚

自分のことを振り返って考えると、大人になるにつれて周囲から求められるものが変わってきたなと感じます。自由も増えた反面、責任も大きくなった。身体的なことだけじゃなくて社会的な面でも「老いる」ってあるのかもしれないと思うと、どんなに身体を若く保ち続けたとしても、生きている限り「老い」から逃れられないような気がするんです。

 

ただ、僕は老いることにはポジティブな側面もあると思っています。というのも、自分のおばあちゃんを見ていると、周りを巻き込む力というか、人とインタラクションする力がすごいなって。人に声をかけるのもうまいし、人から「ケアされる」のもうまい。それはやはり年を重ねたからこその力なのかなと思います。

 

他者を寄せ付けず、孤高に生きるのもいいけれど、僕は自分のおばあちゃんのような生き方の方が根を張っていて良いなって思うんです。僕も長生きして、周りの力だけで生きていけるようになりたいですね。

2096年の世界に、Deep Diveする

対話パートはいったんここまで。ここからは『何もかもが理想とかけ離れていた』の世界にDeep Diveする時間です。各々、鳳明館の中でお気に入りの場所を見つけてもらい、そこでたっぷりと時間をかけて小説と向き合ってもらいました。

ここでは『何もかもが理想とかけ離れていた』の概要を紹介します(全文はこちらでお楽しみください)。

舞台は2096年。世界には「物理人間」と「論理人間」の2種類の人間が存在している。論理人間とは、いわゆるメタバース空間のような論理的空間に存在している人間で、物理的な身体は持たない。一方、物理人間は、物理的な身体をもった人間で、いわば私たちと同じだ。ただしこの時代には物理人間も、ゲノム編集によって生まれる前に身体や知的能力を向上させることが当たり前になっており、さまざまな疾病や障害の可能性は排除されている。

 

主人公はそんな世界に生きる「ゲノム編集を受けていない物理人間」だ。平均的な物理人間よりも病気がちで身体能力が低く、物覚えも悪い。肉体的にも精神的にも劣っている。ゲノム編集を拒否した母親に対して、メディアは「非倫理的」「前時代的」といった批判を浴びせ、主人公自身も母に対して複雑な感情を抱いている。しかし母は「さずかった命。ありのまま受け入れることが、生きるということ」と繰り返した。

 

時が経ち、主人公は「物理的に」子どもを授かった。出生前診断を受けると遺伝子に異常が見つかり、医師からは産むことを諦め、人工授精で「論理的妊娠」を試みるよう勧められる。しかし主人公は母と同じ選択、すなわちゲノム編集をせずに産むことを選択する。生まれた息子は主人公よりもさらに身体が弱く、12歳で肉体を失い、「物理人間」としての生を終える。しかし彼は論理空間に生き続け、物理空間に生きる主人公に「生んでくれてありがとう」と語りかけるのだった。

小説へのDeep Diveの後、再度集合し、それぞれの発見や気づきを共有しながら、議論を深めていきます。

「生きる=年を重ねる」とは、不確実性と有限性に向き合うこと?

——小説を読んでみて、考えたことや気になったことなどはありますか。

大塚

まず気になったのは、『何もかもが理想とかけ離れていた』というタイトルです。この「理想」とは何なんだろうなと。おそらく、物理空間における理想と論理世界におけるそれはきっと違いますし、同じ物理空間だと言っても、今僕らが生きる時代の理想もまた、2096年の物理空間におけるそれとは違うものなのだろうなと。そんなことを考えながら読み進めていました。

田中

小説の世界の人々は、より“理想的”な人生を送るために、ゲノム編集をしたり、論理人間として生きる道を選択しているわけですよね。では、この“理想的”な人生とは何かというと、「あらゆる不確実性を排除した人生」なのではないかと感じました。

 

「周りの人間よりも能力が劣っているかもしれない」「若くして大きな病気になるかもしれない」……不確実だからこそ、不安になる。ならば、その不確実さをコントロールしてしまおうと。

 

一方、現在を生きる私たちは、ゲノム編集はされていないはずだし、何があっても「物理人間」として老いていくしかありません。であれば、「不確実性に向き合って、その中でなんとか幸せをつかもうと足掻くこと」こそが、私たちが年を重ねる意味なのかなって思ったんです。

——幸せになるために試行錯誤しながら年を重ねることこそが、私たちの「生」なのだと。

田中

よく「私たちがこの世に生まれてきたのは奇跡なんだ」みたいなことが言われますよね。そういう生命の儚さみたいなものを感じるからこそ、「せっかくの命なのだから、大事にしなきゃ」と、限りある命を全うするために足掻こうと思える気がするんです。

 

一方、論理人間たちって、肉体を持っていないわけですから、少なくとも肉体的に老いることはないですよね。つまり、命の有限性を意識することもないのではないかと。不確実性と有限性が排除された世界の中で、人は「幸せになろう」と足掻かない気がするんです。

 

これはあくまでも想像でしかありませんが、足掻く必要のない人生はつまらなそうだなと思ってしまいました。幸せになるための試行錯誤から生じる、ポジティブなこともネガティブなことも、すべて受け入れながら年を重ねていきたいですね。

大塚

漫画や映画などのコンテンツに「転生モノ」というジャンルがありますよね。僕たちはさまざまな異世界を生み出し、そこで生きることを想像して楽しんでいるわけですが、この小説の論理空間のあり方を見て、ひょっとすると「死後の世界」も人間が生み出した異世界の一つなのかもしれないなと思いました。

 

たとえば僕が亡くなった祖父に今もお線香をあげたり、お供え物をしたりするのも、僕の想像で作り出した世界で祖父が“生きている”からなのかもしれないなと。

偶然が織りなす「自分の物語」を楽しむ

——主人公の息子のように物理世界での人生を終えて、論理人間になるとしたら、物理空間に何を残し 、論理空間に何を持って行きたいと思いますか?

大塚

僕は「自分の物語」を残したいです。自分を自分たらしめているのは、それまで世界に残してきた軌跡そのものだと思います。その物語は、間違いなく世界に一つしかないものですから。もちろん、その過程ではつらいことも受け入れがたいことも起こるわけですが、振り返ってみると、すべてのことに意味があるように思える。もしかすると、それが「老いる」ということなのかも……。

——過去の出来事に意味を付与できるようになる、ということが?

大塚

そうですね。僕の趣味は小説を書くことなんです。そして小説を書き始めてから、何か嫌なことが起こったり、あるいは何気ない日常を過ごしたりしていても、その時間に意味がある、言い換えれば物語の一部だと感じるようになりました。なぜかというと、小説を書くときは、普段の自分とは違う視点から物事を捉えているからだと思っていて。

 

それと同じで、年齢を重ねて、さまざまな経験をすることは、さまざまな視点を獲得することにつながると思うんです。そしてその新たな視点が、過去の時間に意味を見いだしてくれるのかもしれないなと。

住谷

「自分の物語」って、記憶の連なりですよね。生まれた時のことは覚えていませんし、3年前の記憶もとても曖昧だけれど、確かにそれらも僕の物語になっている。おそらく論理世界なら、すべての記憶がデータ化されていつでも取り出せるようになっている気がするんですが、「思い出せないこと」も含めて自分の物語なのかなとも思います。

田中

何かしらの出来事をきっかけに、忘れていた記憶がふとよみがえることってあるじゃないですか。それって、経験を重ねたことによって、過去の記憶に意味が生じた瞬間なのかもしれないなと思いました。

 

日々経験しているすべての出来事は、「いつか思い出すかもしれないこと」であり、「一生思い出さないかもしれないこと」でもある。それを決めるのは、年を重ねた未来の自分ですよね。「どうせデータとして残せるしな」と思いながらすべてのことを経験するよりも、「今日の出来事は一生忘れたくないな」とか「早く忘れてしまいたいのに、どうしても思い出してしまう」みたいな感情とともにある方が楽しい気がしますね。

——それもある意味、不確実性を楽しみながら生きるということですよね。

「誰か」とともにあることが、いい年の取り方につながる

——みなさんも、「年を取ると、体感時間が短くなる」という話を聞いたことがあると思います。そう感じる理由は「新しい経験をしなくなるから」だそうなんです。みなさんの話を聞いていて、新しい学び、すなわち記憶に残ることが減っていくと、人は「死に近づいている」と感じるのかもしないと思いました。

住谷

新しい学びを与えてくれるのは、想像の範囲外にあるものだと思うんです。思いもしていなかった物事に出会うと、学びが得られると同時に、大きな喜びを感じるし、その出会いは深く記憶に刻まれますよね。そう考えると、「予想外」に出会い続けることが、「いい年の取り方」につながるのかもしれないですね。

大塚

僕はもともと対話するのが好きなんですよ。その理由は、みんなの言葉を取り入れながら思考することで、「僕ってこんなことを考えていたのか」と、新しい自分に出会える気がするから。それもまた、一つの「予想外」なのかなって思います。

田中

私たちにとって最も「予想外」なのは、やっぱり人だと思うんですよね。当然、自然現象など、予想できないことはたくさんありますが、日常の中にたくさんの「予想外」を提供してくれるのは、生身の身体と感情を持った他者だと思います。

 

もちろん、悪い意味での予想外もあるかもしれませんが、年を重ねるにつれて、その出来事が持つ意味は変わっていくかもれませんしね。だから、理想的な年の取り方をするためには「誰かといること」が重要なのかなって思いました。

住谷

僕は最初に「老いたくない」と言いましたが、みなさんとの対話を通して老いるからこそ見える景色があるのだと感じて、老いるのも悪くないかなという気持ちになっています。

 

他の何かとの比較を通して、物事の価値に気付くことってあるじゃないですか。今回、僕たちが生きる世界の延長線上にある物理世界と論理世界を比較したことは、この世界で生きること、言い換えれば年を重ねることの意味を考えるきっかけになった気がします。

もし、みなさんが肉体的な死を迎えたあとも論理空間で生き続けられるとしたら、物理空間には何を残したいと思いますか? 記事の感想とともに、ぜひ「#ウェルエイジング」をつけてシェアしてください。

『q&d』編集部が問いと対話をより深めていくq&dラヂオでは、SF小説を読みながら「生と死」について考えた座談会を振り返り、老いとの向き合い方について、改めて考えました。

Photo by 川島 彩水

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