QUESTION & DIALOG QUESTION & DIALOG
Well-Aging

動き、集まり、語り合おう。
ゴリラやサルには真似できない、「人間らしい」年の重ね方

ボランティア活動などを行う地域コミュニティに参加し、さまざまな年齢の方々と交流をする中で「コミュニティ」と「いい年の重ね方」の間には、何か関係があるのではないかと思うようになりました。失われつつある地域コミュニティに参加しながら年齢を重ねることは、私たちに何をもたらすのでしょうか。霊長類学者・山極壽一さんと考えます。

総合地球環境学研究所所長
山極 壽一

京都大学理学部卒、同大学院理学研究科博士課程退学、理学博士。(財)日本モンキーセンターリサーチフェロー、京都大学霊長類研究所助手、京都大学理学研究科助教授、教授、同大学理学部長、理学研究科長を経て、2020年9月まで京都大学総長を務める。

日本霊長類学会会長、国際霊長類学会会長、国立大学協会会長、日本学術会議会長、総合科学技術・イノベーション会議議員を歴任。2021年4月より現職。南方熊楠賞、アカデミア賞受賞。鹿児島県屋久島で野生ニホンザル、アフリカ各地でゴリラの行動や生態をもとに初期人類の生活を復元し、人類に特有な社会特徴の由来を探っている。

q&d編集部
宇野 豪文

大阪府出身、在住。2011年にパナソニックに入社して以来、技術職として一貫して電池に関わるソフトウェアの開発に携わる。2019年から組合役員に従事して社会活動に目が向き、地域の青少年育成やボランティアに幅広く参加。二児の父。趣味はランニングやアウトドア全般。最近はLEGOの作品作りにはまり、展示会にも参加。

目次

「年を重ねること」と「コミュニティに参加すること」の関係

36歳になった私は、ここ数年で地域の青少年育成やボランティア活動などのコミュニティに参加するようになりました。さまざまな年齢の方々との出会いを経験する中で感じたのは、「よりよく年を重ねること」と「コミュニティに参加すること」の間には、何か関係があるのではないかということ。

 

そんなことを考えていたときに出会ったのが、総合地球環境学研究所で所長を務める山極壽一さんの『スマホを捨てたい子どもたち』という本でした。本の中で山極さんは、「群れでの子育てや、五感でつながることを重視するゴリラ型の社会形成が人間の幸福につながること」を指摘しています。私たち人間によく似たゴリラの生態とその社会に、「いい年の重ね方とコミュニティ」の関係を考えるためのヒントがあるのではないか——そんな考えのもと、山極さんを訪ねました。

 

語っていただいたのは、ゴリラやチンパンジー、サルと私たち人間がつくるコミュニティの違い、いま人間社会から失われつつあるさまざまな「縁」と、それを取り戻すための方法、そしてコミュニティに参加することの意義……見えてきたのは、私たちが「人間らしく」年を重ねるためのヒントでした。

動き、出会い、語り合うことが「いい年の取り方」につながる

宇野 豪文(以下、宇野)

今日は山極さんと、「コミュニティに参加すること」と「いい年の取り方」について考えてみたいと思っています。

山極 壽一さん(以下、山極)

面白い着眼点ですね。両者には深い関係があると言えると思いますよ。というのも、僕は多様な人の「語り」を聞くことを通して、自らも「語れる人」になることが「いい年の重ね方」につながると考えているんです。

宇野

「語り」ですか。

山極

そう。僕は人間の社会は「動く自由」「集まる自由」、そして「語る自由」でできていると思っています。そして、これらの自由を持っていることは人間だけの特権なんです。たとえば、ゴリラは遺伝子的に人間に似た生き物ですが、この三つの自由を持っていません。ゴリラたちも自由に動けるのですが、年間に動ける範囲は決まっているし、基本的に一つの家族的な集団にしか所属できないんです。でも、人間は自由に動けるし、集まれるし、語ることができる。

 

せっかくの特権なのですから、それを生かさない手はないですよ。私たちは自らが得たさまざまな経験を、動き、集まり、語ることを通して他者と分かち合わなければならない。「年を重ねる」とは、たくさんの「語り」を聞くことであり、年を重ねた人の役割とは自らの経験や多様な「語り」を他の人に伝え、聞く人の世界を広げることだと思っています。

宇野

なるほど……。コミュニティの中でさまざまな人の経験に触れることを通して、やがては自らが「語る人」になり、誰かの世界を広げる存在になっていくと。

山極

ゴリラを調査するために長年暮らしたアフリカには、現在も文字を持たず、語ることによってのみコミュニケーションを図る、いわゆる無文字社会に生きる人たちがいます。そのようなコミュニティでは、特に高齢者が重要な存在になります。

 

なぜなら、さまざまなトラブルが起こったり、誰かが悩みを抱えていたりすると、多くの場合、その解決は高齢者の「語り」を頼ることになるから。「以前、同じようなことがあった」「あの人から同じようなことを聞いた」と、うまくたとえ話などを織り交ぜながら、解決のヒントを提示するのが高齢者たちの役割なんです。

「複数のコミュニティに参加すること」ができるのは、人間だけ?

宇野

動き、集まり、語り合うことが「人間らしく」年を重ねることにつながると言えそうですね。先ほど、「ゴリラは一つの家族的集団にしか所属できない」というお話がありました。ゴリラと人間はとても近い生き物だと思うのですが、コミュニティに所属する意味やその作り方が私たちとは異なるということでしょうか?

山極

そうですね。まず、複数のコミュニティに所属できることは、人間が作り上げた最高の能力の一つです。私たちに似たチンパンジー、サル、そしてゴリラも一度に一つの集団にしか所属できないし、ひとたび集団を離れると基本的には戻れません。それに、別の集団に入るためには一定の“手続き”が必要になるし、時間もかかる。でも、人間の場合はそうではありませんよね。日常的に複数の集団を渡り歩くなんて、人間にしかできないことなんです。

宇野

ゴリラやチンパンジー、サルなどはそれぞれどんなコミュニティを作っているのでしょうか?

山極

ゴリラが作るのは人間社会の「家族」に近い集団です。そして、チンパンジーやサルは家族的な集団ではなく、地域コミュニティに近い集団を作り、その中で生活をしています。実際、僕たち研究者もチンパンジーの集団を「コミュニティ」と呼んでいます。

 

他方、人間はその二つを合わせた社会を作ってきました。複数の家族などを含んだ地域コミュニティを作り、一つの家族に所属することとその家族を含むコミュニティに所属することを両立させてきた。これがゴリラやチンパンジー、サルの社会と、人間社会の大きな違いの一つです。では、なぜ人間が家族とコミュニティを両立させられるかと言えば、共感力に優れた生物だからです。

宇野

共感力?

山極

家族とコミュニティでは、行動原理が異なります。家族というのは、見返りを求めずに奉仕し合う集団なんですね。ところが、自らの家族以外の構成員も含むコミュニティは、「互酬性」によって成り立っています。簡単に言えば、「ギブ&テイク」の関係だということです。

 

そして、いくら人間に近い遺伝子を持つ生物でも、異なる原理を持つ二つの集団に属することはできません。見返りを求めない奉仕によって成り立っている家族的な集団に、「ギブ&テイク」の原理を持ち込んでしまうと破綻してしまいますからね。賢い類人猿たちでも、二つの異なる行動原理を使い分けられないんです。    

 

他方、人間は家族以外のコミュニティの中でも、他者の立場に立って行動することができます。つまり、「この人はいまこんなことで困っているのだろう」と想像し、自分に不利益が生じるとしても、相手のために行動することができる。共感力を持って、集団の原理を超えた行動ができるからこそ、人間は他に類を見ない社会を作ることができたんです。

人間社会は「サル化」している!?

宇野

一方で、山極さんは書籍の中で人間社会が効率と序列を優先する「サル社会」に近づいていることを指摘されていました。確かに現代では、たとえば地域コミュニティへの参加も「面倒くさいから」「メリットがないから」と敬遠する風潮があるように感じます。山極さんは、どういったところで人間社会がサル社会化していると感じられているのですか?

山極

まず、人間がいかにしてゴリラやチンパンジーなどよりも大きい社会を維持しているか、から説明します。人間の脳の大きさからすると、顔と性格を一致させ、それぞれが違う行動を取りながら社会を成立させられる限界は150人だと言われています。ですが、私たちの社会には150人よりもはるかに多くの人が所属していますよね。

  

ではなぜ、私たちは「脳の限界」を超える社会を維持できているのか。その理由は、規範やルールがあるからです。日本社会の中で暮らしていくには、日本の法律を守らなければなりませんし、すべての人にそういったルールが適用されると信じているからこそ、私たちは名前も顔も知らない人とでも「同じ社会の構成員」になれる。しかし、規範やルールがあるからこそ生じる弊害もあります。それが「ルールさえ守っていれば、他者のことを気遣わなくてもいい」という考え方です。

  

たとえば、だいぶ前から電車の中に「優先座席」ができ、「優先座席を譲ること」は、暗黙のルールになっています。しかしそういったルールができたからこそ、優先座席「ではない」座席を譲る人が減ったのではないかと思うんです。

宇野

「一般的な座席ならば譲らなくてもいい」、言い換えれば「『優先座席は譲らなければならない』というルールを守っていれば、問題ない」と考える人が増えたと。でも、なぜ私たちはルールができたら、それに従っていればいいと考えてしまうのでしょうか?

山極

ルールに則って行動する方が簡単だし、効率的だからです。他者と自分との関係や、行動の結果が及ぼす現在、あるいは未来への影響などを考えるのって、ややこしくて面倒くさいんですよ。だから、何かしらのルールが存在し、「それさえ守っておけばOK」なら、ルールに則して行動を決める方がはるかに簡単だし、効率的に生きていくことができる。

宇野

昨今では「タイムパフォーマンス」という言葉が聞かれるなど、効率を重視する人が増えている気がします。

山極

効率を求める傾向が強くなっているという意味において、人間社会はサル社会に近づいているように思います。サルの社会では「力が強いか弱いか」ですべてが決まります。社会の全構成員が自分より強いサルに従っていれば、トラブルが起きることはありません。唯一絶対のルールに従っておけばいいわけですから、とても効率的ですよね。

 

そして効率を求め、「人」よりもルールやシステムを信頼するようになってしまった結果、私たちは他者との「縁」という重要な社会関係資本を失いつつある。共にスポーツをしたり、音楽を奏でたり、ボランティアをしたりと、身体を共鳴させた経験でつながる共同体は、人間にとって大事な「資本」なんですよ。なぜかと言えば、何かしらのトラブルに陥ったとき、助けてくれるのは「顔見知り」ですから。ルールのみを共有する、顔を知らない誰かを助けようとは思わないじゃないですか。

宇野

だからこそ、顔と名前が一致する150人以下のコミュニティが私たちにとって重要な意味を持つわけですね。

山極

そう。しかし、150人という脳の限界を超えて大きな社会を作り、都市型の生活を営むようになった私たちは「人」ではなく、制度やシステムに頼らざるを得なくなったわけです。

「集まること」に、目的はいらない

宇野

効率を重視するがあまり、人との縁ではなく、ルールやシステムに依存した暮らしになっている……。

山極

一口に「縁」と言っても、「地縁・血縁・社縁」があると考えているのですが、そのいずれもが弱まってきていますよね。でも、人は「縁」がなければ生きていけません。

 

たとえば、スポーツ観戦や音楽フェスなどに積極的に参加する人は少なくない。そういったイベントに参加すると、一時的な縁を感じることはできますが、その縁が長続きするわけではありません。インスタントな縁を得ることはできるけれども、地縁・血縁・社縁のような「生きるための保険」にはならないわけです。いま必要なのは、人の生活の支えとなる「縁」を生み出すことだと思っています。

宇野

私自身、「縁」を感じたいから地域活動に参加するようになったのかも……。地縁・血縁・社縁に代わる縁とは、どのようなものなのでしょうか?

山極

現代における新たな縁とは、物を通じた縁だと考えています。これまでは物は所有するものだったから、人をつながなかった。「所有する」という発想を変え、「物はシェアするためにある」と考えた方がいいと思うんです。

 

そしてモノだけではなく経験も共有財、つまりは「コモンズ」になり得ると考えています。あなたが地域で活動やボランティアから少しずつ幸福感を感じているのは、コモンズを増やしているからだと思うんです。共有財をみんなで見つけ出し、みんなでシェアすることによって縁ができる。結果的にそれが幸福につながっていくのではないでしょうか。

宇野

とはいえ、「物」や「経験」に基づく縁を生み出すのは簡単なことではありませんよね。さまざまな人と語り合い、よりよく年を重ねるために、どんなことから始めればいいのでしょうか?

山極

「目的を決めず集まること」ですね。効率を重視するようになったことに加え、昨今はコロナ禍の影響もあり、私たちは「集まること」に目的を求めすぎてしまっている。でも、集まる目的なんて考えなくてもいいと思うんです。

 

たとえば、同窓会。かつて部活や運動会、文化祭を通して身体を共鳴させた仲間たちとのつながりは、先ほど申し上げたように「資本」ですよね。そういった仲間との集まりはとても安心できるし、目的なんてなくても集まれるじゃないですか。

宇野

同窓会でする話と言えば、お馴染みの昔話くらいですが……(笑)。

山極

それでいいんです。そういった話ができること自体が大事だし、もしかするとそれぞれの仕事の話をする中で「一緒に何かやってみようか」と、未来につながる創造的な考えが生まれるかもしれない。もちろん、そういった話が生まれるのは同級生との語り合いの中だけに限りません。まずは目的を決めず、とにかくさまざまな人と集まり、何でも語り合うことから始めてもらいたいですね。

より自由に動き、集まり、語り続けたい

さまざまなコミュニティに参加し、幅広い年齢の方々と関わることで気付きを得ると共に、「共有財」を見出していく。そして、そういった経験の蓄積が「いい年の取り方」や幸福につながる。地域コミュニティの中でなんとなく感じていた充実感の正体を、山極さんとの対話を通して言語化することができたような気がしています。

 

また、ゴリラやチンパンジーなど、私たちとよく似た生き物の生態というレンズを通して見えてきたのは、「言葉」あるいは「語ること」の重要性です。コロナ禍は私たちの暮らしにさまざまな影響を及ぼしました。その中でも特筆すべきなのは「人間の特権」、つまり「動き」「集まり」「語る」自由を奪ったことだったのかもしれません。

 

まだその影響が完全になくなったとは言えませんが、山極さんが言う通り、“せっかくの特権なら、それを生かさない手はない”。コロナ禍が巻き起こってからは、私自身「集まること」に目的を求めてしまいがちでしたが、取材を終えたいま、目的がなくとも「動き」「集まり」、そして「語り合う」ことを意識し、よりよく年齢を重ねていきたいと思っています。

 

皆さんにとって、「よりよい年の重ね方」とはどのようなものでしょうか? 記事の感想とともに、ぜひ「#ウェルエイジング」をつけてシェアしてください。

Photo by 其田 有輝也

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