ポップカルチャーから学ぶ、すこやかで多様な「老い」の形――
「いくつになってもハッピーバースデー」特集によせて
ポップカルチャーから学ぶ、すこやかで多様な「老い」の形――
「いくつになってもハッピーバースデー」特集によせて
昔話、アニメ、ゲーム、漫画、映画、小説……世の中にあまたあるコンテンツの中で「老い」はどのように描かれてきたのでしょうか。ポップカルチャーの文脈を参照しながら「老い」を前向きに捉えるヒントを哲学者の内藤理恵子さんに伺いました。

1979年生まれ。2010年、南山大学大学院人間文化研究科宗教思想専攻博士後期課程修了、博士(宗教思想)。現在、南山大学宗教文化研究所非常勤研究員。著書に『誰も教えてくれなかった「死」の哲学入門』(2019年)、『正しい答えのない世界を生きるための「死」の文学入門』(2020年)、『新しい教養としてのポップカルチャー マンガ、アニメ、ゲーム講義』(2022年)(いずれも日本実業出版社)などがある。

奈良県出身。横浜国立大学卒業後、パナソニックへ入社。調達・宣伝業務に携わった後、2017年より同社の北米本社に駐在。2019年より現職。一児の父。TEDxKobe 2015-16 スピーチキュレーター。趣味は料理。詳しい人となりはnoteにて。
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10代でも、90代でも、「老い」を快く迎え入れていくために
q&d第8回目の特集は「これからのくらしを考える11の視点」のうちの「Well-Aging 良い年の取り方をしたい」をメインテーマとして扱います。

年齢を重ねるにつれ、人間が変わっていくのは、ごく自然なことです。赤ちゃんが次第に歩けるようになったり、思春期の若者が徐々に精神的に成熟して、思いやりや社会性を身につけていくこともまた、Aging(加齢)に伴う変化です。
これらは「成長」と呼ばれ歓迎されますが、一定の年齢層に差しかかると「老化」という呼び名に移ろい、ネガティブな要素として捉えられがちになります。あらためて考えると、不思議に思えます。
Agingに伴う変化は、どこまでが「成長」であり、どこからが「老い」なのでしょうか。捉えようによっては、そこに境界線などなく、今こうして記事を読んでみる皆さんが何歳であっても、それぞれの形で「老い」を迎えていると言えるかもしれません。
若い世代を始めとした多くの方々に読んでいただいている「q&d」だからこそ、あらためて、あらゆる人が当事者となり得る「老い」について考え、よりすこやかなくらしを紡いでいくためのヒントを見いだしていきたい――そんな思いで、今回の特集「いくつになってもハッピーバースデー」をお届けします。
特集の初回となる本記事は、「老い」という概念について皆さんに親しみを持ってもらえるよう、文学作品やアニメ、ゲームなどを切り口に対話を始めてみたいと思います。お相手は、『新しい教養としてのポップカルチャー』などの著者である、哲学者・宗教学者の内藤理恵子さんです。一度は読んだことのある作品や、日頃何気なく見ていたコンテンツから「老い」についてどのようなヒントが得られるのでしょうか。

浦島太郎が老人になったのは「罰」か?
はじめまして。内藤さんは複数の大学の非常勤講師として哲学の講義を担当されているだけでなく、宗教や文学作品、ひいてはゲームやアニメといったポップカルチャーの領域を研究され、新しい教養として私たちが学ぶための著書を多く世に出されていますね。
これらの作品において「老い」というのは古くから扱われているテーマだと思いますが、若い方には縁がなくてピンとこないテーマかもしれません。なにか象徴的なテーマを1つ挙げて、お話を始められませんか。
今日はよろしくお願いします。そうですね……では誰もが知る昔話『浦島太郎』から始めてみましょうか。橘さんは、浦島太郎が玉手箱を開けておじいさんになってしまったことは、彼に対する罰だと思いますか?
えっと……浦島太郎は竜宮城に行った後、本人の体感では数日を遊んで過ごして、帰る際に玉手箱をもらう。村に帰ってみると現実世界の時間は何十年も進んでいて、彼が玉手箱を開けると、経過した時を補うかのように老人となってしまった……という話ですよね。
これだけ聞くと、私は罰のように思えます。村から離れた場所で数日過ごしただけなのに老人になってしまったのは、理不尽な気がしますね。それは、村の仲間を見捨てて楽しく過ごしたことに対する戒めだった、と捉えられるかなと。

実はこのテーマ、私が大学の哲学の講義の1つとして行っている自由な討論の中で、学生に対して「どんなテーマで討論したいか」と募集した際、学生側から提案されたテーマなんです。そして実際に学生と対話していく中で思ったのは、老いに対する感覚が、私たち世代(ロスジェネ世代)から見て、概して変化しているということです。
それは、どんな変化でしょう?
最近の学生は「外見の老化=ネガティブなこと」とは捉えない人が意外と多数いたのです。
「身体が老人になったとしても、感受性が衰えていないのであれば問題ないのではないか」「玉手箱は異世界(=竜宮城)と現実を行き来した際に起きたバグを正しく修正しただけだから、罰とは言えない」……といった多様な意見が出てきたりして、老いを多面的に捉えているのだなと感心しています。
竜宮城を異世界と捉えているのは、最近流行っている“異世界転生”のジャンルの影響を感じますね。
そうですね。異世界転生モノの多くは、主人公が現実世界で死ぬところから物語が始まります。そういった作品に多く触れることで、自ずと老いや死生観についての考察が深まっているのかもしれません。
別の講義では「悪に根源はあるか?」というテーマを扱ったのですが、『黒執事』『龍が如く』を引用しながら「悪」について語った学生もいましたし、一方で、『進撃の巨人』作品全体からメタ視点で「悪」について考察した学生もいました。
今の世代は漫画・アニメ・ゲームの人気作品に対し、ある程度共通の前提知識があるので、具体的なシーンを思い浮かべながら議論が進みます。とはいえ、すべての受講者がポップカルチャーに親和性があるとも限らないので、「ポップカルチャーの前提知識がない受講者にもわかるよう、簡単な『エピソード説明』をするように」と助言もしました。結果、議論として白熱しました。
アニメでも映画でも、私たちは物語に触れると、そこから抽象的な概念に対する表現のパターンを見いだして学習することができます。昨今の学生たちの思考の多様性は、たくさんのコンテンツに触れているからこそなのかな、とも感じました。

なんて面白そうな授業! そして、今回のテーマである「老い」という抽象的な概念について考える際も、自分が好きな作品、慣れ親しんだ物語を手がかりに考察を深めていくことができるのだなとわかりました。
フィクションだって立派なロールモデルになる

内藤さんから見て、ポップカルチャーにおける老いの表現の仕方において、何か時代による変化を感じられることはありますか。
老いの文脈で新たに確立された表現の定型としては「幼い外見の老女」が挙げられると思います。年齢や能力が一般的な人間を超越し、仙人のようになったキャラの表現として、高齢の女性が少女のような見た目で描かれるんです。近年ではひとつのジャンルとして数えられるくらい、根強い人気を持つようになりました。
このような表現が支持されている背景には「見た目は老いているより若いほうがいい」といったルッキズム的な嗜好も含まれていることは否定できません。ただ、私はむしろ「肉体の年齢に執着しない、見た目の老いにすら囚われないような、心身共に超越的な存在」として受け入れられている側面が強いのではないかな、と感じています。

なるほど……コンテンツを作る方の発想の飛ばし方やバリエーションには驚かされるばかりです。若く描こうが、年寄りに描こうが、老人キャラというのは表現できるのですね。
男性にとっての「良き老い方」のロールモデルと呼べるキャラには、いくつかのわかりやすい元型が存在します。例えば「ハリー・ポッターシリーズ」でいうダンブルドア校長のような“老賢者”などです。
一方で女性キャラでは、“Great Mother”ともいうべき圧倒的な存在感を持つ元型が、男性ほどは明確な「キャラクター」として表現されていません。だからこそ、女性キャラの「老い」の表現の可能性は、これからどんどん掘り下げられていくと思いますね。
内藤さんから見て「ポジティブに老いが描かれているな」と感じられる女性キャラは、ほかにどんなものがありますか?
パッと思いついたのは、スタジオジブリの映画『千と千尋の神隠し』に登場する湯婆婆(ゆばーば)です。彼女は神々が集う湯屋を切り盛りする優秀な経営者です。老女キャラにありがちな「昔は美女だった」という描写もなく、老いてなおエネルギッシュで自立した女性として、とても魅力的に感じます。
オープンワールド型のアクションRPG『サイバーパンク2077』に登場するワカコ・オカダという女性も推したいですね。このゲームはとある巨大企業によって実質的に支配されている街が舞台になっていて、ワカコはその一画のフィクサー(≒裏社会の調停役)なのですが、言動がとてもカッコいいんです。作中でも自分よりひと回り若い男性に惚れられているようなシーンがあります。見た目もかなり硬派で、現状では、ほかになかなか類を見ないタイプの老女キャラです。
現実世界に目をやると、自然に老いながらロマンの対象になる女性像としては、故ヴィヴィアン・ウェストウッドが筆頭に挙げられるでしょうか。老いても凛とした美しさがあり、男女を問わず愛される存在でした。前述したワカコも、彼女と同じジャンルの魅力を持っていると思います。

いま挙げていただいた人物像は、話を聞いているだけでも直感的に「カッコいい!」と思える気がしました。
そうなんですよね。彼女らはステレオタイプな老いの枠組みをもぶち壊すような存在で、理屈ではなく、カッコいいんですよね。
現実には、とくに女性において「老い」を肯定的に捉えるためのロールモデルがまだ少ないですが、それを補完する舞台として、フィクションは大いに役立つでしょう。老いてなおエネルギーにあふれ、視聴者を魅了するようなキャラが増えれば増えるほど、現実を生きる私たちも、よりポジティブに老いと向き合えるようになれるのではないでしょうか。
あなたの「呪い」は、肉体から? それとも精神から?

老いについて考えるといえば、橘さんは映画『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』をご覧になっていますか?
はい、大好きな作品です!
主人公が「生まれた時が老人で、年を取るごとにどんどん若返っていく」という数奇な運命を抱えているのが印象的ですよね。 老いの過程を逆さまにしただけで、これほどまで多くの教訓や示唆が得られるのかと驚かされる名作です。
印象的なのは、主人公の数奇な運命だけではありません。あの映画の中には、主人公でもヒロインでもない「第二のヒロイン」のような扱いのような女性が登場します。彼女は19歳の時に「女性で初めてドーバー海峡を泳ぎ切る」という挑戦をして失敗した過去があり、それからは「何も達成できていない」と嘆く人生を歩んでいました。
しかしその後、彼女は68歳で再び横断にチャレンジして、見事成功します。若い頃、一時だけ彼女と恋仲にあった主人公は、そのニュースをテレビで見て、心底嬉しそうな顔をします。 彼女の青春は60代になっても続いており、むしろそこでピークを迎えているんですよね。
とても素敵なエピソードですよね。
人の老いとは一様ではなく、 それぞれ個別に体感の違う「肉体の老い」と「精神の老い」がある。前者はある程度避けられないものではあるけれど、後者は気の持ちようで、いくらでも肯定的なものに変えていける。だからこそ、老いとは決して平等に降りかかる「呪い」ではないのだ――と、この映画は教えてくれます。

発売元:ワーナー・ブラザース ホームエンターテイメント
販売元:NBC ユニバーサル・エンターテイメント
© 2009 Warner Bros. Entertainment and Paramount Pictures Corporation. All rights reserved.
肉体的な老いと、精神的な老い。たしかに、そのように分けてみると、向き合いやすくなるように感じます。
先ほどから少し話にも出てきていましたが、最近の若者は上の世代よりも、見た目などを含めた肉体的な老いにあまり執着していないように思えます。その背景にはきっと、リアル以外のバーチャルな世界の広がりと充実があるのだろうなと。
リアル以外の世界の充実、ですか?
肉体的な老いが大きく影響するのは、現実世界の話です。バーチャルな世界で自身をアイコン化、あるいはアバター化してしまえば、肉体的な老いのデメリットはほぼ気にならなくなりますよね。
一昔前までは「リア充/オタク」は相いれない存在のように語られることが多く、私自身、オタクとしてそのような対立構造を身をもって感じてきた世代ですが、今の若者からそのような垣根はほとんど感じられなくなりました。各自がそれぞれのバランスでリアルとバーチャルな世界を楽しんでいて、それを認め合っている。とりわけ、昨今ではバーチャルな世界の楽しみ方が多様になっていることが、老いに対しての寛容さにもつながっていると思います。
想像力で、老いの呪いを超えてゆけ

ここまでお話を伺って、自分の「老い」に対するイメージがステレオタイプに満ちていたことに気づけました。老いに対しての受け止め方が、これほど多様になっていたのですね。
リアルな肉体の老いについては、昨今ではスキンケアや化粧品、さらには美容に関する技術の発達によって、テコ入れが容易になったことも、価値観の変容のポイントになっていますね。
先にも挙げた哲学の授業で、これまた学生からの提案のテーマとして「ルッキズム」についても議論したことがあるのです。その対話の中で分かったことは、いま10代〜20代の学生は「美容整形で美しさ、若々しさを獲得するのは努力」「その結果がどうであれ、頑張っている人の姿は美しい」などと、容姿の実態を超えたところで、その生き様自体を肯定的に捉えている若者が増えてきているということです。
確かに、容姿はいわば「配られたカード」であり、多くの人が望み通りのものを受け取れません。自分が満足するためであれ、理想のパートナーを見つけるためであれ、リアルの世界でそのカードを交換する方法としての美容整形は、今では否定的に見られていないのだな、と驚きました。私たちの世代の感覚とはずいぶん変化しているようで、私自身、若い学生と対話する過程において、古い価値観が刷新されるのを感じました。
むしろ、努力によって運命に抗おうとしている姿に共感が生まれているのですね。その観点は自分にはなかったので、とても興味深いです。
一方で、バーチャルのほうに目を向けると、VTuberなどに見られるアバター文化は、さらに人間を老いから解放する役割を担っていくと思います。仮想の世界で新しく生成できるアバターは、実年齢ばかりか性別や人種も問わず、皆が誰にでもなれますから。
バーチャルの世界でアバターとして過ごすことに重心が移り、そこで精神的な充足を保てるのであれば、もはやその人にとっては老いはそこまで大きな問題ではなくなるのかもしれません。
VTuberの世界には、それが何なのか説明するのが難しいほどに、多様なアバターが存在していますね。最近でも「ぶいちゅー婆」の愛称を持つ90代のVTuberが注目を浴びていましたが、中の人の素性がセットで話題になっているのが新鮮でした。

素敵ですよね。ジェネリックな世界で、もう1つの「自分」を創造できるんです。おじいさんが魔法少女になってもいいし、若い女性が中年のおじさんになってもいい。私はVRゴーグルを装着した状態で、マルチプレイの剣戟アクションゲームをプレーしていますが、VRの世界でのアバターはまさに「もう1つの身体」という感覚です。
現実逃避といえばそれまでですが、人間の想像力というものは果てしなく、 現実的な次元の「老い」をはねのけるようなアイデアが、次々と生まれています。ポップカルチャーは、私たちの現実の生きやすさにつながる新たな概念が生まれる土壌としても機能し得るでしょう。
自分にとって心地よい年の取り方を、楽しみながら見つけていきたい

内藤さんとの対話を通して、昔話、アニメ、ゲーム、漫画、映画、哲学、ソーシャルメディア、動画配信サービスなど、さまざまなプラットフォーム上で描かれた老いの多様性について触れることができました。現代に生きる私たちだからこそ、たくさんの物語に触れ、そこから自分らしい年の重ね方を描くことができる特権があるのかもしれないと感じました。
参考になったのなら幸いです。
これから特集「いくつになってもハッピーバースデー」が始まり、老いをテーマにしたさまざまな記事が展開されますが、編集部が老いにどう向き合い、自分たちなりの問いを導き出したのか。読者の皆さんと楽しみながら、特集をお届けしていきたいと思います。
内藤さん、最後にここまでのお話を踏まえた上で、読者に何か「老い」との向き合いについての助言をいただけたらうれしいです。
では、哲学者のショーペンハウアーの考え方を紹介させてください。私の意訳も含みますが、彼は人生を「錯乱した音楽の演奏」にたとえます。どのみち散漫な酷い演奏にしかならないのだから、はじめから演奏しない方がマシ……とすら言っているほどです。加えて、彼は老年期を「大きな幻滅」とまで表現しています。
そうは言いつつも、老年期には現実世界から何も期待しなくなるから些細なことにも喜べるなどと、絶望の中にもユーモラスな楽観を見いだしている部分もあり、そこが彼の思想の魅力でしょう。そんなショーペンハウアーは、自身の厭世的な思想を「それはそれ」と割り切って、現実を輝かせるための対処法も提示しているのです。
それはなんでしょう?
ひとつは「運動」で、もうひとつは「美しい顔を見ること」。これって、今の流行りに照らし合わせると「筋トレ」と「推し活」に重なると思いませんか?
たしかにそうですね! 肉体的な老いのケアは「筋トレ」で、精神的な老いのケアは「推し活」で、と捉えることもできそうです。
バーチャルな世界に浸ることは何も悪くないですが、私たちのリアルな肉体がリアルにある以上、すこやかにくらすためには、適度な運動がとても大切ですね。そこになんとか楽しみを見いだしつつ、自分なりの推しを見つけて愛でることで、心身の若々しさを共に維持していきましょう。

皆さんは、玉手箱によって浦島太郎が老人になってしまうのは、罰だと思いますか? 「老い」という言葉について、どんなイメージを持っているでしょうか? ぜひ、記事の感想と共に「#ウェルエイジング」をつけてツイートしてください。
Photo by 山口卓人
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