時間とともに育まれる価値とは?
「経年変化」から考える“もの”との付き合い方
時間とともに育まれる価値とは?
「経年変化」から考える“もの”との付き合い方
ものを大事に長く使うエコな生活をしたいけれど、古くても我慢して使い続けるのは……。ぶつかり合う2つの気持ちにうまく折り合いをつけるヒントを探るべく、デザイン活動家のナガオカケンメイさんを訪ね、「古くなっていくもの」との向き合い方について話を伺いました。

「ロングライフデザイン」をテーマにD&DEPARTMENT PROJECTを創設。47都道府県に1か所ずつ拠点をつくりな
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年月とともに価値が上がるもの
今回の特集テーマである「地球とわたしにやさしいくらし」を考えたとき、「ものを大切に長く使うこと」が重要なのではないかということが、頭に浮かびました。しかし、世の中には新しいほうがいいもの、古くなると価値が下がるものはたくさんありますし、私自身も新しいものに飛びついてしまうことが多々あります。
新しいほうがいいと思いながら、それでも、地球のためにと古いものを我慢して使うのは、私にとってあまり豊かなくらしとは言えない気がします。ならどうしたらいいか……と考えていたところ、「経年美化」という言葉に出会いました。
作りのしっかりとした革製品などは、年月を重ねるにつれて味や深みが出てきて美しくなる。そんなふうに「年月とともに美しさが増し、価値が上がっていくこと」を意味する経年美化。これをくらしのさまざまなシーンに取り入れ、経年によるものの変化をポジティブなものとして感じられれば、我慢を強いられることなく、ものを長く大切に使い続けられるのではないかと感じました。
「古いもの」「古くなっていくもの」とのよりよい向き合い方を探るべく、長く愛され続ける“こと”や“もの”の本質を探究するデザイン活動家のナガオカケンメイさんにお話を伺いました。

「作らないデザイン」――ロングライフデザイン
皆さんは「デザインの仕事」にどのようなイメージがあるでしょうか? 私は漠然と「クリエイティビティを発揮し、新しいものを作り出す」といったイメージを持っていました。しかしナガオカさんは、あえて「新しく作らない」というスタンスでデザインと向き合っています。

私も昔は、デザイナーとして新しいもの、個性的なものを作ろうと躍起になっていました。その意識が変わったのは、今から20年くらい前のこと。趣味で訪れたリサイクルショップに、直近のテレビCMで見かけた新商品がもう出回っていることに気付いたんです。
商品が市場に出て、飽きられてしまうスピードがあまりに速い。それが恐ろしくなって、「もう作るのをやめる」「デザインをやめる」とも考えたけれど、それでもデザインが大好きだった……。
悩んだ末に、「じゃあ、新しいものを作らないデザイナーをやってみよう」と思いついたんですね。そこから、流行に頼らずにずっと世の中に愛されているデザイン――「ロングライフデザイン」に着目して、人が生み出したものを紹介する取り組みを始めました。

長く続く“こと”や“もの”の本質を追究するロングライフデザインの思想において、ナガオカさんは「基本的にものの価値は年月とともに上がっていくと考えたい」と言います。しかし、そもそも私が興味を持った「経年美化」という表現には違和感があるそうです。
私は「経年美化」でなく「経年変化」という言葉を使います。何かを「美しい」と定義するのは、デザイナーの価値観の押し付けのように思えてしまうからです。
ものは、ただ単純に変化していくのであって、そこに美しさや素晴らしさを見いだすのは、使い手一人ひとりです。そして、結果的に何十年もの間、たくさんの生活者に認められ続けたものが“いいデザイン”だと言える。そう思うんです。
例えば、茶道の世界では焼き物の “景色”を楽しんだり、さびれたりして汚れたところを直して使い続ける。京都に古くから残っている木造建築の多くは、長い年月を経てもそれが“味”になるように、良い素材が選ばれている。
こうした、長い時間軸で愛され使われ続けるもののつくり、使い続ける美意識、精神性を、私たちの日常に近い工業製品にも応用していこう――これがロングライフデザインの考え方です。

年月とともに宿る“美しさ”の正体とは?
経年の変化を“劣化”と捉えるのではなく、そこに味や深みを見いだすことで、人はものをより大事に使い続けることができるのかもしれない。ナガオカさんのお話を伺いながら、あらためてそう感じました。
では、経年変化による美しさや良さは、“もの”が持つどのような要素に見いだされやすいのでしょう。ナガオカさんは、あくまで自分の主観とした上で、まずは「素材」が重要だと指摘します。

古くから残っている美しい街並みって、建材が良いんですよね。良い建材を使って、時間をかけて長く使えるように施工しているんです。安い素材を古くなったら剥がして貼り直そうという感覚ではありません。ロングライフデザインにおいて「そもそもの素材の質が良く、長期の使用に耐え得ること」は不可欠な要素です。
確かに、古い建造物、アンティーク家具、使い込まれた革製品などは、良い素材を使って丁寧に作られ、十分に手入れされながら、長い年月使われてきたからこその美しさが宿っているように感じます。そしてもう一点、経年変化を楽しむ上では、ものにまつわる「ストーリー」も大切な要素だと、ナガオカさんは続けます。
ロングライフデザインが成り立つ条件としては、その“もの”に誰かの思い入れが込められていること、物語性があること、この2つもとても重要です。そして「作り手」「使い手」「届け手」の三者の思い入れが重なることで、長く使われるものになっていく。これは間違いないと思います。
D&DEPARTMENTは“もののまわり”という販売の方法をとっています。かつては、例えば焼き物なら「これは〇〇焼きで、〇〇という陶芸作家が作った器です」といった「作り手のストーリー」でものが売れていました。
今は、「この器はこんな料理を盛るのに使える」「この器があればこんな生活ができる」という「使い手のストーリー」を前提とした訴求が重要視されています。買う側にとっては、作り手である作家や産地は関係ない場合がある。しかしこれからは、両者が融合していくだろうと感じます。
ものには必ず故郷があり、背景がある。益子焼だったら益子焼産業の様子、益子という場所、作り手や届け手、ものを取り巻く人たちの想いなど、さまざまなストーリーが折り重なった中で、ものが人々のくらしに長く受け入れられていく社会になると思っています。

作り手が10年後、20年後を見据え、思いを込めて作ったものに、届け手や使い手などものに関わるさまざまな人の思い、ストーリーが加わって私たちのくらしを彩る。そのような視点こそ、地球環境とくらしの豊かさを両立させるカギになるのではないでしょうか。そしてナガオカさんは今、使い捨てが当たり前となっている意外なものに、そのまなざしを向けています。
プラスチックがかわいそう……

使い捨ての代表格、環境問題の原因とされがちなプラスチック。経年変化を楽しみやすい木材や革などと対極にある素材のように思えますが、そのプラスチックの経年変化に注目した取り組みを進めているといいます。
プラスチックは本来すごく長持ちするんですよ。ただ、人間が「使い捨て」というキーワードを作ってしまったがゆえに使い捨てられ続け、今では環境問題の原因として悪者にされる。これまであらゆる場面で大活躍して、私たちのくらしを豊かにしてくれたのに、です。
そんなプラスチックを「地球環境のために世の中からなくそうぜ」というのは、仮に正論の部分があったとしても、プラスチックがあまりにもかわいそうだと思うんです。
そこで僕は、「プラスチックの使い捨てをやめて、一生使い続けてみませんか」と提案してみたい。一生使い続けるプラスチックのマグカップを作り、買ってくれた人と定期的に集まって、コーンスープを飲む会をする。そういう活動を通じて、想いに賛同する皆さんとコミュニティを育みながら、使い捨てではないプラスチックの新しい見方を提唱したい。そんな人が世の中に一人くらいいてもいいのかなと思います。

「プラスチックがかわいそう」――そんな言葉が自然に出てくるほど、ナガオカさんは“もの”に深く愛着を持っているのだなと感じました。そして、当たり前だと思っていた見方を、「使い捨て」から「一生もの」へと変えるだけで、プラスチックはこれからも私たちのくらしを豊かにしてくれる頼もしい存在になり得るな、とも感じました。
同様に、「新しいほど価値がある」という見方も絶対的なものではなく、固定観念として定着してしまっているだけなのかもしれない……。お話を伺う中で、私自身に無意識に刷り込まれていたものの見方に気付かされました。
直接仕入れた生身の情報を信用する
地球環境に対して漠然と問題意識を持っていても、メディアなどでさまざまな主張やトレンドが溢れているのを見て、何を信じたらよいか分からなったり、関わるのが面倒になったという人は多いのではないでしょうか。
私自身、「あれをやれ」「これをやるな」「価値観をアップデートしろ」という圧力のようなトレンドにさらされると、つい反発したくなる気持ちがあります。対してナガオカさんは、流行やトレンドに惑わされず、自分の頭でくらしを考えることが重要だと言います。

トレンドとしての環境問題に惑わされるのではなく、一人ひとりが、リアルに地球が今どうなっているのかを調べて、これはまずいぞと判断して、行動を起こさないといけない。
私はテレビもネットもほとんど見ません。自分が信頼を置ける、大好きな農家さんが「いいよ」と言ったものは素直に受け入れる。現場に行って彼に会い、そこで出会った生身の情報を私は信用します。
メディアの情報や社会のトレンドではなく、自分自身の価値基準で、自分が正しいと思った人からの情報で動くしかないんじゃないかな、と思います。そうしているうちに、同じ意識を持ってくれた人が「ロングライフデザインっていいよね」などと耳元でささやき合う。そういう輪が広がっていくのが良い姿なのではないでしょうか。
環境問題についての議論では、「これ以上の豊かさの追求をやめるべきだ」という主張を耳にします。私はこうした声を聞くたびに、「人が豊かさの追求を我慢するのは無理なのではないか」と感じていました。この“豊かさの追及”についてナガオカさんにご意見を伺ってみたところ、「すごく難しい質問だな……」と悩みながらも、絞り出すように考えを話してくれました。
そもそも「豊かさって何だろう」という発想も流行だよな、と感じています。豊かさの基準をどこに設定するか次第だけど、私たちは「豊かさって何だろう」と考えられるくらいには十分豊かです。そもそも「豊かさ」とは、わざわざみんなで一斉に考えるものではなく、一人ひとりがそれぞれに追い求めるものだと思うんですよ。
文化とは「どうせやること」をちょっとよくすること

「豊かさとは何か」と悩むくらいには豊か。確かにそうだなと納得しつつも、「じゃあ、豊かになりたいとは思ってはいけないのだろうか……」と少しモヤモヤとした気持ちになりました。けれども、取材の終わりにナガオカさんが思い出したように話してくれたエピソードを聞き、とても納得させられました。
以前、京都国立博物館の前館長さんと対談したときに「文化というのは、どうせやることをちょっとよくしようとすることだよ」と話してくれたんです。
「どうせお茶碗でご飯を食べるなら、ちょっといいお茶碗で、ちょっといいお米を食べるのが“文化”。そういう行為の積み重ねが博物館には展示してあるんだよ」と聞いて、なるほどと感心しました。豊かさと文化は似ているのかもしれない。
「豊かさ」についてふわっと考えるよりも、この文化の話のように、「自分のくらしをちょっとよくしてみよう」と具体化して考えるほうが、結果的にくらしは豊かになるんじゃないかなと思います。
「自分のくらしをちょっとよくするには?」と一人ひとりが自分の頭で考え、ライフスタイルを少し変えてみる。文化とはもともとそうした行為であり、そうした一歩一歩で今の私たちの豊かなくらしは作り上げられてきたのです。
これからはその営みの中に、私たちの住んでいる地球の現状を考慮することも入れてみる。トレンドや義務感で人々の行動変容を促すよりも、そのほうが着実に「地球にやさしいくらし」へと近づいていけるのかもしれません。

私は、地球環境というあまりに規模の大きな問題に対して、実感の伴った当事者意識を持つのはなかなか難しいと感じていました。また、「環境問題」というテーマに、あまりに大きく社会的に注目されているがゆえに、さまざまなトレンドや、極端とも言える主張が日々溢れかえっていて、何が正しくて何を信じればよいか判断に迷うことも多々あります。
そうした中で、本質を見極め、自分らしい形で取り組むには、まずは自分の身近にあるものや、その周りにあるストーリーに思いを馳せ、現場や信頼できる人のもとに足を運んでみるといいのかもしれません。ナガオカさんのお話を聞いて、私も、自分の身近にあるもの、その“もののまわり”にいる人たち、彼らを取り巻く環境について、以前よりも自然と興味を持てるようになった気がしています。
そして、「プラスチックは使い捨て」「新しいほうがよい」といった自分の常識に対して「本当にそうなんだっけ?」と問いかけてみる。ときには違った視点を取り入れてみる。こうした一歩一歩の重要性に気かされました。
くらしの当たり前に目を向けて、「少しよくするには」と考え、ちょっと行動を変えてみる。そうやって「今よりも少しいいくらし」を追い求めていった先に、今よりも少し地球にやさしくて、私にとっても少し豊かなくらしがあるのではないでしょうか。

皆さんは昔から大事に持っているものはありますか?
ぜひ#10年前から愛用中を付けて、教えてください。
『q&d』編集部が問いと対話をより深めていくq&dラヂオでは、デザイン活動家・ナガオカケンメイさんを訪ねた時のことを振り返りながら、 「“もの”との付き合い方」について、改めて考えました。
Photo by 加藤 甫 および提供写真
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