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孤食って本当によくないこと?
誰もが心地よい「食」の在り方を考える

コロナ禍の影響で、家族や友人と食卓を囲むのが難しくなった現代。誰にとっても心地よい食の在り方を実現するため、私たちは「食べる」という行為とどう向き合うべきか。そんな問いを、京都大学人文科学研究所 准教授の藤原辰史先生と考えてみました。

京都大学人文科学研究所准教授
藤原 辰史

1976年、北海道旭川市生まれ、島根県横田町(現奥出雲町)出身。20世紀の食と農の歴史や思想を研究し、戦争や技術、飢餓、ナチズム、給食などについて考えてきた。「分解」と「縁食」を用いて、自然界と人間界を同時に叙述する歴史の方法を考察している。

q&d編集部インターン生
中川 佳乃

兵庫県出身。京都大学経済学部在学中。大学では、イノベーションマネジメントを専攻する他、経営学について幅広く学ぶ。よさこいサークルに所属し、京都の鴨川や愛知で踊っている。食べることが大好きで、おひとりさまランチにもよく行く。

目次

ひとりでご飯を食べるのは本当によくないこと?

「おひとりさまですか?」

 

飲食店で聞かれるこの質問は、ひとりで食事をしに来たことを必要以上に意識させられます。ひとりで食事をとることは「孤食」や「個食」と呼ばれ、メディアや研究結果などにおいてネガティブに紹介されることが多いですが、私はそれに違和感を感じています。大学進学を機にひとりで食べる機会が増えたことで、場所と時間を自由に選べるといったように必ずしも悪いことばかりではないと実感したからです。

 

ここ数年は新型コロナの感染拡大により、「家族や友人と食卓を囲みたい」といった望みが叶いづらくなりました。ひとりで食べることがより私たちの身近になりつつある中で、私は「孤食が本当によくないことなのか?」を問い直してみたくなったのです。

 

ひとりで食べたい人も、みんなで食べたい人も、すべての人が心地よく食事を楽しめる方が、よりインクルーシブな社会に近づくのではないか。そんな問いを深めるため、「縁食(えんしょく)」という概念を提唱する京都大学人文科学研究所の藤原辰史先生と、孤食は本当にダメなのかや、コロナ禍後の共食の在り方などについて考えてみました。

※縁食:ひとりで食べざるを得ない状況を指す「孤食」と、共同体という強い関係性の中で行われる「共食」の間を示す言葉。藤原辰史先生が著書『縁食論』で定義しています。

食は知らない人同士のつながりを生まれやすくする

中川 佳乃(以下、中川)

今日はよろしくお願いします。最初に「孤食」というテーマについてお話しさせてください。孤食は悪いことだとよく言われがちですが、本人がひとりで食べることを望んでいる場合であっても避けるべきものなのでしょうか。

藤原 辰史さん(以下、藤原)

言葉の定義を先にした方が議論しやすいと思うのですが、中川さんの中で「コショク」はどういう漢字が今頭の中に浮かんでいますか?

中川

孤独の「孤」です。

藤原

そうですよね。私は、望んでいないのにもかかわらず、孤独な食事を強要されてしまう状況を「孤食」と定義しています。つまり、ひとりで食べる「一人食(いちにんしょく)」の中に、「孤食」という概念があるわけですね。そのように質問を置き換えると、私は「楽しい一人食」っていうのはあると思っています。

中川

ひとりで食べることは必ずしも避けるべきものではなく、楽しい場合もあるということですね。楽しい一人食には、具体的にどのような場面があると思いますか?

藤原

そうですね。例えば、中川さんも、飲食店で周りの人が気になることはありませんか?

中川

あります。隣の人の料理が美味しそうに見えたり、何の本を読んでいるのかなって思ったりしてしまいますね。

藤原

そうですよね。味だけではなく、お店に入ったときに広がる世界とか、周りの人の雰囲気を感じられるのは、楽しい一人食だと私は思うんです。中川さんはどうですか?

中川

確かに、友人や家族と食事をしているときにそこまで周囲の人を気にしないので、場や周囲にいる人の空気感を感じられるのは一人食だからこそと思います。それが食の楽しさや満足感につながりうるという点も共感します。

藤原

そうですね。最近はコロナ禍なのもあって周囲に目を配ったり、ゆっくり過ごしたりすることが難しいじゃないですか。でも、「隣の人が気になってしまう」感覚は、やっぱり大切だと思います。

中川

知らない人同士のつながりが生まれやすくなるのが食ということですか。

藤原

はい。直接的なつながりが生まれる必要はない。例えば、つい隣の人がどんなおいしいものを食べているのか気になって見てしまったり、会話を聞いたり。一言も話さなくても、その人に関心を持って、空間を共有できたことに満足して帰ることができる。そういうのが「食」が持つ素敵な力だと思っています。

食堂の仕切りは周囲に関心を持つ機会を奪っている

中川

食事をする際の周囲との関係性でいうと、先生は著書『縁食論』の中で京都大学の「ぼっち席」を批判されていたことが印象的でした。

藤原

そうなんですよ。ちなみに、中川さんも京都大学の所属ですが、実際に行ってどう思いましたか? 中央食堂に入ると、人と人の間に白いパーテーションがありますよね。

中川

私は特に違和感がなかったです。友達と食べるならパーテーションはない方がいいけれど、ひとりで食べるときは別にあってもなくても気になりません。私が入学したのがコロナ禍だったので、どこの席にも透明な仕切りがあったのも影響していると思います。

藤原

ああ、そうか。コロナ禍でパーテーションがある風景を見慣れてしまったから、それが普通って感じだよね。コロナ前は今以上に違和感がある雰囲気だったんですよ。

中川

先生はなぜパーテーションの存在をよくないと考えるのですか?

藤原

人と人との関係性を外から強制するものだからですね。私たちは食堂で席に着くとき、他の人がすでに座っていたら一つ席を空けるなどして他者との距離感を自然に調整します。

 

なのに、「ぼっち席」はその自然な調整の機会を奪って、距離感を強制している。「あなたが守りたいプライベートはこうですよね」とよそから強制されることにすごく違和感を感じるし、それに納得している学生にはもっと違和感を感じます。

中川

外からの物理的な区切りが、隣の人に関心を持つという自然な行為を妨げているんですね。その問題は、大学内だけに留まらず、他の飲食店でも当てはまりますか?

藤原

いい質問ですね。例えば、ラーメン屋などにおいても、人同士の関係をあえて遮断して、他の客と一切視線を合さずに済むお店がありますよね。人に顔を見られたくない人は入りやすいし、ラーメンとも真剣に向き合えるので、意義は否定しません。

 

でも、ラーメン屋はスープの香りや湯気、店員さんの顔や声とかを一緒に味わいながら食べるからこそ美味しいと私は思うんです。食べているのはロボットではないので、食事の場で自然と漏れてくる情報を遮断するのはすごく非人間的だと感じてしまいますね。

中川

もともと「ぼっち席」は、「ひとりで食べていることを他人に知られたくないから食堂で食事がとれない」というような学生の要望に対応するところから始まったと思います。その点について、先生はどのように考えていますか。

藤原

ご指摘の通り、「ぼっち席」が生まれたのは「便所飯」問題が背景にありました。自分が孤独と周囲に思われないよう、トイレで食事をとる学生がいるということですね。

 

その対処法として「ぼっち席」をつくる前に、ひとりでいることを誰かに見られたくない気持ちにさせる社会について、もっと考える必要があるのではないでしょうか。学生は友達と和気あいあいとした時間を過ごすべきだとする感覚があるから、ひとりで食べていると自分が学生生活を楽しめていないように感じて、アイデンティティに危機感を抱いてしまう。

 

近年は大学側も学生にコミュニケーション力を強く求めるようになっていると感じます。就職活動で企業に気に入られるような人間、つまりSNSで積極的に発信をしていたり、友達がいっぱいいたり、リーダーシップをとったりする学生であることがよいことだとされがちです。この状況は考え直さなければいけないのではないでしょうか。

中川

確かに、ひとりでいることがあまり好ましくない認識が多くの人にあると思います。

藤原

もう一つは、ひとりで食事をしていても自然に見える場所、空間が大学にないことが課題なのだと思います。つい数年前までの大学は、立て看板やビラなども多くてもっと雑然とした空間でした。

 

多様な人間が、多様な空間で自由に食べていた。その辺で寝転がって食べる学生もいれば、本当にお金がないから近くの安いスーパーで買ったものを外のベンチで食べている風景も珍しくなかったんです。それがベンチもなくなり、外で食べる空間もなくなっている。そういう変化によって、ぼっち食が問題視されてきていると思っています。

中川

お話を伺って、あらためて一人食をただ寂しいものととらえるのではなく、むしろ本来の人間らしい調整力の発揮をうながす機会になるととらえることの重要さを実感しました。

新しい共食の在り方とは? 「縁食」をヒントに考える

中川

次に考えたいのが、「ひとりで食事をとらざるを得ないけど、本当は誰かと食卓を囲みたい」と望む人にどんな食事の在り方を提供できるかです。この問いを考えるにあたり、先生が著書の中で提唱されている「縁食」に学ぶところが多いと感じています。縁食空間が生まれるための条件として、何が必要になるとお考えですか?

藤原

3つあると考えています。1つ目は、明確なコンセプトです。例えば、「子ども食堂」のような縁食の場を想定すると、子どもたちを呼んで学習の機会を提供したいのか、高齢者の活躍の場をつくりたいのかで全然違いますよね。なので、なぜこの場所に自分たちが縁食空間をつくるのかという、場のコンセプトが明確である必要があります。

※子ども食堂:子どもがひとりでも行ける無料または低額の食堂。「地域食堂」「みんな食堂」と呼ばれることもあり、民間発の自発的な取り組みとして運営されています。公的な支援制度が整備されていないにもかかわらず、その数は増加の一途をたどっており、2021年12月時点で、全国約6000箇所にのぼるそうです
(参照:NPO法人 全国こども食堂支援センター・むすびえWebサイトより)。

藤原

2つ目は、メニューがシンプルであることです。レストランと違い、子ども食堂のメニューはだいたいひとつかふたつ。その選べなさこそが大事だと思います。近くの飲食店の圧迫にもならない。「今日のご飯はこれですよ」と出されて、嫌いなものがあったら誰かにあげて調整すればよい。そうした人とのかかわりを通して、何か新しい食の在り方を発見できると思うんですよ。

 

3つ目は、誰もが入りやすい空間にすること。例えば、重厚で高級感のある扉は、ベビーカーで入ろうとすると物理的にも心理的にも障壁になりますよね。縁食空間は、誰もがアクセスしやすい場所であるよう、大きなベビーカーを抱えながら子供の手を引いていても簡単に扉を開けて入れるオープンさがあるか、テーブルのレイアウトにフレキシビリティさがあるかなど、どんな人でも困ったときに立ち寄りやすく、かつ居場所もあることが重要です。

中川

著書の中で、「共食の場には共同体の意識があり、家族や親戚など人の集まりとして親密なことを強調している。私たちは孤食を克服する概念として共食を置いてきたが、ひとりで食べざるを得ない人たちに居場所を与えるビジョンとして、一家だんらんのイメージを押し付けすぎていないか」といった一節も印象に残りました。

 

「縁食には共同体の意識は必要としない」とする先生の考え方を発展させると、縁食を成立させているのは、共同体感覚ではなく、共在感覚なのではないでしょうか。そして、それは私が考えたい、「何かしらの事情で誰かと一緒に食事をとれない問題を解決する新しい共食」を成立させるためにも必要なのではないかと考えています。

藤原

「共在感覚」とは、知り合いかもしれないし、全然知らない人かもしれない誰かと時間と場所を共有した感覚ですよね。僕もそれに賛成です。「共在感覚」も縁食を実現させる一つのキーワードだと思いますよ。

中川

コロナ禍の影響で、オンライン飲み会のような食のつながり方も増えたと思います。このような形に「共在感覚」は生まれると思われますか?

藤原

すごく大事なテーマですね。僕もオンライン飲み会を何回かしましたが、新たな可能性がある一方で限界があると感じています。新たな可能性を感じるのは、食べる行為をそれぞれの生活環境ごと可視化できるようになり、友達や家族とシェアできる点です。

 

調理の様子や家族の声など、普通の飲み会では分からないその人の生活が見える。これによって、互いをより深く理解するきっかけになることが期待できると思います。

中川

友人の家のキッチンがどうなっているのか、どんなふうに料理しているのかといったことは、これまで見る機会がなかったことですもんね。

藤原

だけど、やはり限界があるな、という思いの方が僕は強いです。リアルで会うときに得られる共在感覚に置き換わることはない、置き換えるべきではないと思っています。

 

繰り返しになりますが、縁食空間は、やっぱり匂いや空気、人の気配を共有する場所です。残念ながらオンライン上では、匂い、空気、何よりリアルの空間を共有できないですよね。場所の共有がないと、どうしても調整力が発揮されない。この調整力がないと、共同体意識でも孤独でもない緩やかなつながりは生まれにくいと思うんですよね。

中川

場所と時間を共有することが縁食に欠かせないものなのですね。それも踏まえて最後にお聞きしたいのですが、ひとりで食べたい人も、誰かと一緒に食べたい人も、誰もが心地よく充実した食事のとり方を実現するために、どのようなマインドが必要でしょうか。

藤原

原点に返るべきだと思うんですね。「食べる」行為とは何かを考え直してみる必要があるのではないでしょうか。食品業界の広告などを見ていると、「食品を購入さえしてくれればそれでいいのかな」「食事を単なる栄養補給ととらえているのかな」と思ってしまうことが多い。しかし、断言しますが、食というのはそんな単純なものではありません。

 

まずは、食べ物が無限に広がるネットワークの絡まり目であることをもう一度考えてみる必要があるのではないでしょうか。食品業界では「購入」の一瞬のみに注目しがちですが、一皿の料理に含まれるお肉だったり野菜だったり調味料だったり、すべて生産している人がいて、中には海外から運ばれてきて、誰かが調理して一皿が完成する。そういう豊かなバックグラウンドを常に意識しておくべきではないでしょうか。

 

加えて、食べることはガソリンスタンドでガソリンを投入するのとはわけが違うことにも留意すべきでしょう。単なる栄養補給ではない。食事をとる場にいる他人やその場の雰囲気、音、そういうものも含めて味わってこその食文化であって、人格を形作るものではないでしょうか。そういうことを考えていくと、中川さんが言ってくださった「共在感覚」も、社会の中に自然と出てくるような気がするんです。

中川

確かに、今日のお話しを通して、「食」というものがいかに裾野が広いテーマなのかを、あらためて感じさせられました。ありがとうございました!

心地よい食は、周りへ意識を向けることから始まる

今回、私は「一人食は本当によくないことなのか?」という疑問から、問いと対話を始めました。リサーチを始めた当初、社会にはひとりでの食事を批判する論調が圧倒的に多いことに驚きました。しかし、藤原先生と「一人食だからこその幸せ」や「緩やかなつながりがもたらす幸せ」についてお話しさせていただくことで、新しい食の在り方を考えることができたことに達成感を感じています。

 

心地よい食の在り方を実現するには、食事空間にあるすべてのものに意識や尊敬の念を向けることが大切だと実感しました。また、「縁食」や「共在感覚」についてお話を伺う中で、緩やかなつながりが新しい食卓をつくる可能性にも気づかされました。

 

「食」という生活に根ざした活動を通じて食べ物が持つ豊かなバックグラウンドや、その場にいる人々の存在に目を向けることで、各自が周りとの調整力を発揮し、自分らしい食事の在り方を実現させることができるのではないか。今はそんなふうに感じています。

メンターの編集後記(q&d編集部・湊麻理子)

企画を考え始めた当初、中川さんは「高校生のときの部活動をきっかけに興味を持った『孤食』という社会課題について考えたい」、と問いをスタートさせていました。

 

しかし、編集部内で対話を重ねる中で「そもそも孤食って本当によくないことなのでしょうか? ひとりで食べたい人も、みんなでワイワイ食べたい人も、どっちも尊重される社会のほうが、もっとインクルーシブですよね」という、とても重要な気づきを得られたことで、この企画がより素敵なものになったと思います。

 

取材には私も同席したのですが、さまざまな事象を取り上げ、「それは人間らしいといえるだろうか」と藤原先生が繰り返し問うていただいたのが非常に印象的でした。

 

ひとりで食べるか、複数人で食べるか、同じものを食べるか、パーソナライズされたものを食べるか、という形式だけに注目するのではなく、「それは真に人間性を尊重したものか」という観点が必要であること。くらしの中の「食」に携わる事業を持つ企業で働くひとりとしても、心に刻みたいと思います。

あなたにとって「食べる」という行為とは何なのか、心地のよい「食」の在り方を実現するにはどうしたら良いのか。記事を読んで感じたことや考えたことがあれば、「#わたしとあなたの境界線」をつけて、ぜひ感想を教えてくださいね。

Photo by 其田 有輝也

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